前世歴史探訪 その21.細川幽斎 覚醒期 1568年~

前世歴史探訪

ここまで、戦国時代の前世歴史探訪はたくさんありました。

それは、1565年~1573年辺りの細川幽斎の歴史が、現世2015年~2023年とリンクしていて、ここを語る上で前後のお話がかなり重要と見ていたのです。

今回は、その細川幽斎(若年名、細川藤孝)、覚醒期に入った頃のお話、前編になります。

1.足利義輝政権終焉までの流れを簡単におさらい(~1565年)

参考その1:前世療法体験談 vol.10 戦国時代京都 読み解きを求めてきた前世
参考その2:前世歴史探訪 その20.西の雄 三好長慶 ~1564年

若い頃、主君は足利家、13代将軍義輝ですが、どうも実態としては細川晴元の家臣色が強かった感じでした。

ですが、1553年、三好家が京都を支配する形になります。

その後、足利家では内部分裂が進みます。
足利義輝も細川晴元と敵対化するようになってきます。

その中、兄、明智光秀(この時、細川光秀を名乗る)は1556年に斉藤家に行く事になります。

細川藤孝(若年名)はそのまま残り、足利義輝はどうもその後細川晴元でなく、三好長慶と結び付きが強くなります。

1558年には、足利家は京都に戻る事になり、三好家との関係が強まります。

ですが、足利家内部での対立はますます強まります。
それが1561年頃ですね。

細川藤孝もこの時に、一族抗争で暗殺は未遂に終わり、なんとか生き延びる事になります。

ですが、後ろ盾としての三好家も内部分裂、謀反等で一気に失墜。

1564年三好長慶亡き後、後ろ盾を失った足利家も一気に凋落。

そして、1565年13代将軍足利義輝も命を落とす事になります。

こうして、13代足利義輝政権は終焉を迎える事となります。

2.15代将軍、足利義昭擁立の準備(1565~1568年)

参考:前世歴史探訪 その9.信長上洛1568年 無血での上洛

足利義輝は男児に恵まれず、足利家の皇位継承権があるのは、側室の子になりました。

14代将軍義栄と15代将軍義昭が候補となったのですが、
14代将軍義栄は三好三人衆の元に、15代将軍義昭は織田家に守ってもらう事となります。

この頃、織田家は東で大いに勢力を伸ばしていましたし、明智光秀より織田家の事についてはよく聞いていましたので、光秀を通じ、足利義昭を預ける事になります。

京都近辺で義昭の幽閉話がありますが、これは三好三人衆から守る為に作った話です。

その後、京都足利家の家臣達も分裂していましたので、14代将軍義栄派と15代将軍義昭派と分かれることになります。史実上では14代将軍義栄派が権限を握っている事となっていますが、実態としては、2派に分かれたといった方がよいかもしれません。

ちなみに1564年三好長慶死後、足利家の大きな後ろ盾を失いましたから、足利家の財力は困窮し、義輝亡き後も政権維持が大変でした。

細川藤孝は、義輝死後では足利家家臣の整理をすると同時に、15代将軍足利義昭擁立計画を織田家の元に進めていく事となります。

また、細川藤孝が実際に織田信長に会うのは1567年頃になります。

3.占術師達と出会う(1568~1570年)

1568年、細川藤孝はとある占術師に京都で出会う事になります。

織田家との関わり方。
今後の足利家の有り方。
目先では、信長上洛の時期の相談ですとか。

この辺りの相談をしていたようです。
ちなみにこの占術師は風のお役割の人でした。
ですが、実際の相談内容は多岐に渡ります。

この頃より、自身の霊的能力が上がっていく事になります。

また、この頃から、織田信長とも密な関係性となっていきます。

1570年には、別の占術師とも京都で出会います。
この方は火のお役割の方です。

この方は、主に戦略系、外交系での相談が多かったようです。
特に対浅井家、その後、一色家(若狭国)や畿内での軍事関係ではかなり相談したようですね。

さらには、1570年頃からですが、明智光秀は京都に戻ってくる機会が増えてきた事もあり、光秀の娘、明智玉(後の細川ガラシャ)と接する機会が増えます。藤孝から見ますと姪にあたりますね。

まだ当時若干10歳ですが、この頃より不思議な能力を兼ね備えており、その後、仏教の学び等で関わる事が増えていきます。
明智玉は水のお役割です。

この3名が細川藤孝にとって、ひふみ(火風水)の法の3名なのです。
また、不思議と3名とも女性でした。

この時以降、細川藤孝は霊的覚醒をしていく事となります。

4.細川藤孝の妻と子

藤孝の子とされる細川忠興ですが、後に明智玉と婚姻する流れになります。

ですから、近親婚かと思われそうですが、実は忠興、浅井家家臣の子だったのです。

当時、浅井家と織田家とは同盟、対立様々な展開がありました。
その中で浅井家に関して、織田家が預った子供達はたくさんいたのです。

ですから、史実に残っている細川藤孝の子達は、主に浅井家家臣の子達なのですね。
また、史実に残っている妻については、婚姻関係を結んだ訳ではなく、寺の関係の人でした。

ちなみに実際に妻・子供は居たのですが、1582年本能寺の変の際、一家離散となりました。
それも子達が名乗った名が、特に対豊臣秀吉という点で問題があったのです。

これも仕方が無かったのですね。

ですから、本来であれば、豊臣秀吉の前では細川藤孝も命を落として自然だったのですが、これは光秀によって事前に幽閉させられた為、なんとか助かる事になったようです。(これも史実とは全く違った話です)

このような経緯より、妻子の関係が変わっているのだと見ています。
まさか、実の妻・子供が一家離散したとして後世には残せないでしょうし。

5.1573年より長岡藤孝に

実質的には、1565年から織田家の家臣のようなものだったのですが、1573年までは足利家の家臣でした。

ですが、1573年足利義昭が形上京都を追放となった後は、軍事面より現在の長岡市~向日市辺りの知行を任される事となります。

この時より、地名から取っているのですが、長岡藤孝と名乗る事となります。

その後、本能寺の変までは、畿内の戦いを中心に参加、もしくは指揮を取る事が多くなります。

6.本能寺の変後は細川幽斎に

ちなみにですが、本能寺の変後は、細川幽斎に名を変えます。

実は、足利家から織田家にかけ、幕府の食関係、占術師としてお世話になった人が細川幽斎だったのです。

この方、実は幼少の頃の名がまた三淵幽斎という事もありました。
幼少の時の苗字も同じで、丁度幼少の頃お世話になった人とも関係があったようで、縁戚にもあたる人だったようです。

本能寺の変後は2年間幽閉されたのですが、実の子達が豊臣秀吉から見て敵対関係にある名を使った事にあります。

その中、細川幽斎が、名乗り出てくれたのですね。
幽閉が解かれたのは、細川幽斎によってなのです。
豊臣秀吉も2年間経過したという事もあって幽閉を解く事にしたのです。

1回目の細川は実質主君の細川という意味合いでしたが、2回目の細川は足利家~織田家にかけお世話になった人から救われたのです。同じ細川、一応遠い親戚関係にはあたるのですが、同じ細川でも1回目と2回目では意味合いが全然違うのですね。

ですから、私としても2回目の細川幽斎の方が好きなのです。
だからゆう斎をペンネームにしているのですね。

また、史実の細川幽斎は、一部名前を借りた人の業績、特技(特に芸術面)が入ってもいます。
細川幽斎は2人で1つになっている所があるのですね。

後編に続く

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