前世歴史探訪 その2.白村江の戦い663年 様々な所で対立が激化

前世歴史探訪

大化の改新以降、中大兄皇子は着々と政権を固めていく流れになります。

ですが、まだ飛鳥朝は、まだそこまで磐石ではありません。

しかし、海の向こうでは、日本を巻き込む出来事が起こります。
この時、飛鳥朝は勢力拡大の為、権力の域を広げようとします。

1.朝鮮、百済朝の滅亡(660年)

当時、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3王朝がありました。

長年ですが、中国王朝(隋・唐)・新羅軍 対 高句麗・百済軍の対立関係が続いていました。

高句麗は、朝鮮半島の北側。
最も広大な地を持ち、資源も豊富。
中国と隣接していた事もあり、隋・唐合わせて7回も渡って攻めてきました。
そして、668年には滅ぼされる事になります。

新羅は場所的に朝鮮半島中程。
百済は朝鮮半島南側。

百済は常に新羅と戦っていましたが、常に中国王朝がバックに付く為、どうしても優位に立てません。

そして660年、百済は事実上終焉を迎えます。

この時、百済の難民は多く、高句麗に逃げる者と九州に逃げる者の二手に分かれていました。
しかし、実態としては九州派の人が多かったようです。

日本だけの話では、ここで終わるという話が既定路線のはずでした。

2.海を挟んでの戦い、簡単には起こらなかった理由

日本列島と中国大陸(朝鮮半島含む)はどの地域もそうですが、海流が強く、船の戦いには向かないのですね。
船は流されますし、大陸側からは飛び道具を使っての攻撃(火矢等)で簡単に勝てます。

そもそも海の戦いはリスクが高く、特に仕掛けた側が負けやすいのです。

ですから、日本を攻めてくる国は失敗しますし、逆に大陸を攻めても失敗するようになっています。
船に頼る時代では、ずっとそうだったのです。

ですから、中国国家や朝鮮国家も日本への侵略にはかなり慎重でしたし、また代々九州の小国が強かったという事もありました。

ですから、長い歴史の中でも、大陸対日本列島では、殆ど戦いが起こらなかったのですね。

3.当時の全国の状況

この当時の人口は近畿で20万人程。九州で20万人程。美濃尾張が8万人程。

東日本がこの当時未開に近い状態でしたが、西日本全体で約60万強近い人がいました。
ですから、近畿と九州が日本の中でも二大勢力圏なのですね。
(実はこの関係性、何千年単位で続いているようです)

この当時、中大兄皇子が影響を与えていたのはまだ近畿圏だけでした。
その他の地方とは、実質協力関係に近い状況だったのですね。

九州では人口数万人の立派な小国家が、当時5つ程ありました。

福岡、長崎、大分、熊本、鹿児島。
どの国家もしっかりしているのですが、しかし九州という地は、統一国家というのが昔から無いのです。

それなりに立派な国家がそれぞれ自然と独立している。

九州という文字が本当にそのままですが、本当は9つに分かれていたというのが始まりのようなのです。

4.戦いの始まりまで

しかし、中大兄皇子は飛鳥朝の権威を高めたいという思いが強くありました。
ですから、戦いたいと思っていたのは、実際の所、中大兄皇子だけだったのです。

当時、唐や、百済、新羅といった国が日本に援軍要請をしたのは事実ですが、それは九州の小国家に対してだけだったのです。
飛鳥朝では、この話をどこかから聞いたようなのですね。

海に先に入って戦った者が負け、というのは大体の者は判っていたので、この海を越えた援軍要請はあっても、まず乗る事はありませんでした。

Ⅰ.飛鳥朝を巨大に見せかけた

飛鳥朝の阿部比羅夫がこの時、作戦の長になったようです。

当時越国を支配した存在という事になっていますが、これも実はハッタリです。
当時、飛鳥朝にそこまで力があった訳ではありません。
また、東日本の情報が九州ではあまり判りません。
こういった事情もあり、大きく見せかけていたのですね。

飛鳥朝のその後では、その道中の小国家。中国地方の民をうまく味方に付けます。
成果報酬的な作戦で兵を雇っていたようです。

こうして、対九州の国家に対し超巨大国家のふりはできたのです。

Ⅱ.百済王朝残党勢による要請、亡命者と結託し、戦いへ

百済の地に残党勢は、百済の地を奪回しよう、という要請が九州国家には届いていました。

また、百済から逃れてきた難民もやはり百済の地に帰りたいという願いが強い者も多くいました。
始まりはこのような所です。

しかし、海を越えての戦いはリスクは高く、九州国家群は乗り気ではありません。

そこで、協力するから、戦いを仕掛けようと主導したのが、飛鳥朝だったのです。

5.白村江の戦い(661~663年)

661年~663年にかけ戦いが始まりました。

この時九州の軍だけで6万。飛鳥朝の軍は3万程いました。

一方、新羅軍は5万人程でした。
当初はこれで勝てると思っていたのでしょう。

ですが、新羅は唐の援軍を付ける事に成功します。
唐としては高句麗の支配が主目的で、この戦いには協力したほうが得策とみていたようです。

最終的には唐は13万人とも言われていますが、実際にはそこまでにないにせよ、かなりの援軍があったようです。

そもそも、戦争の技術は、全てにおいて唐・新羅が上でしたが、さらに地形的な面も大きく、海流も下側。
日本側が完全に負けました。

Ⅰ.九州の男子3割程が亡くなる

この時ですが、日本軍は4万人弱程亡くなります。(書には3万以上と記載されているようです)
しかも、その殆どが九州国家群の軍だったようです。

九州の小国家の総人口は20万人。男子の3割以上が、この戦いで亡くなったのです。

Ⅱ.中央国家対九州豪族の対立の始まり

中大兄皇子はなるべく自国の兵は使わないようにしていたのです。

それも、どうもダマシ的な事もしていたようですね。
中大兄皇子は実は、勝ちたいというよりは九州国家群の支配下が目的にしていたようです。
ですから、戦いの形式的には、九州国家群を利用したという方が正しいかもしれません。

その作戦のあり方に対し、九州の小国家の被害は非常に大きく、その後飛鳥朝に反発します。

中央 対 地方。
負の感情の連鎖はこの時から始まっています。

6.その後、様々な所で対立が生まれる

その後、667年には中大兄皇子は飛鳥朝から近江に遷都をします。

その理由は唐からの進撃を恐れた、というのが通説です。
その要因もあると思いますが、実際の所は九州国家からの反逆を恐れた為、という事もあるのです。

相次ぐ飛鳥朝の遷都もあり、九州国家群を中心に地方豪族の反感はピークになります。

実は、この動きには、飛鳥朝内でも対立を生みだす事となります。
中大兄皇子の実弟、大海人皇子はこの動きに反対をします。というより我慢の限界だったのでしょう。

史実上では記載がありませんが、実弟大海人皇子はそのまま飛鳥宮に残る状況になったようです。

また、飛鳥朝内部での民の不満もかなり高かったようです。

その結果、どうなったのか。
それが壬申の乱(672年)です。

しかし、これが史実と事実が大きく違うのですね。(次回に続く)

7.まとめ

この時には日本勢は数万人亡くなりましたが、影響を及ぼした魂の数は、数十万単位なのです。

また、この戦いの首謀者は阿部比羅夫でしたが、現世の首相と同じ苗字(字は違いますが)なのは単なる偶然でもありません。(但し、常々、加害者は前世や現世で被害者という型から始まっています。ちなみに前世・未来世は別の人です)

白村江の戦いでの朝鮮半島の事情は、前世の記憶にはあまり無く繋がりにくいのですが、この時日本対朝鮮半島でもかなりの怨恨の元を作ったようです。

今日の朝鮮半島対日本の対立構造も、白村江の戦いから元になっている部分もあるようです。

このように、朝鮮半島の人達も含めますと、この戦いでは100万以上の魂が、負の感情の連鎖に巻き込まれています。

さらに現代に至るまで、その連鎖に巻き込まれた魂の数はもっと増えています。

魂ベースで見ますと、実はどちらの国の前世を持っている人も多く、場所が変わっただけで、相手側を憎しみあっているという構図もかなり多く見られるようです。

ですから、戦争ってどちらが悪いという訳でもないのです。

悪いというならば、負の感情の連鎖の始まりにあるのですね。

負の感情の連鎖から、さらに規模が大きくなった、その後の戦いは何度もありますが、
負の感情の連鎖をいち早く止め、平和を実現していく事が、本当に重要だと思っております。

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