前世歴史探訪 その19.太原雪斎 死んで生き、平和実現へ

前世歴史探訪

今川家の実質的軍師だった太原雪斎。

その後、死んで生きる事にした太原雪斎。
その影響力は多大なものでした。

彼は、桶狭間の戦い後、東海地方の混乱を沈め、また、対上杉家との戦いに関して、織田家には多大な協力をしています。

戦国時代の混乱を沈静化させた陰の主役。
信長上洛までの陰の主役と言ってもよいでしょう。

実際に、日本が平和に導く流れとなったのは、太原雪斎が死んだ事にしてから後の事なのです。

また、彼の生き方は、織田信長、明智光秀、共に多大な影響力を与えたようです。

今回は太原雪斎についてです。

1.太原雪斎、生い立ち

Ⅰ.幼少期

1496年駿河にて生まれます。

両親は、元々今川家重臣の位置付けでした。

父親は地主系。
母親は水軍の関係でした。

ですが、平和を望む太原雪斎は、どうも当初から今川家との関係を継続したくはなかったようです。

幼少期から臨済宗の僧として生きます。

Ⅱ.今川義元の教育係~軍師就任までの経緯

1522年、僧の道に進む太原雪斎26歳、今川義元4歳、この時、義元の教育係を受け持つ事になります。

今川家の家臣になる事を今川氏親より要請されますが、この件については断り、その後京都で僧の道に邁進します。

その後1536年、今川家内、家督相続で揉める事になります。

これは、両親(主に父親)からの要請があり、この後の今川家を支えて欲しいとの事でした。

彼は今川家、家督相続の揉め事を沈静化、この時以降、今川義元の政治・軍事両方で支える事になるようです。

また、家臣というよりは、表向きは僧としての位置付けが強かったようです。

Ⅲ.武田家、北条家とは同盟を結ぶ流れに

まずは1537年、武田信虎(武田信玄の父)の娘と今川義元が婚姻を結び、武田家と同盟を結びます。

その後は、北条家とは対立が続くものの、最終的には1554年北条家、武田家、今川家を同盟を結ぶ事となります。
(この時に、今川義元の子氏真が、北条家と婚姻関係に)

この3家が同盟を結ぶ事となり、一旦は東海の地は平穏となります。

この後、西の織田家だけが標的になる事になります。

また、1549年には、三河の松平家の援軍要請で、織田軍との戦いを防衛した際、不思議な縁ですが、松平竹千代(後の徳川家康)を人質に取る事となります。

その後。太原雪斎は家康も教育する事となり、家康は今川家で元服後も教育する事となります。

Ⅳ.僧侶としても高名

1545年には臨在寺を地元駿河で開寺。

1550年には京都妙心寺の第35代住持に就任。

1553年には領内における寺社・宗教の統制。

仏教から統制を進めていった部分もあるようです。

1555年60歳で死去。(表向き)

その後、1576年81歳まで生きます。

2.死んで生きる事にした後~桶狭間の戦いまで

1554年、今川家、武田家、北条家間で同盟を結んだ後、今川義元の子、氏真も北条家の娘と婚姻した後は、1555年、影から支える事にします。

今川義元とは既にソリが合わず、死んで生きた方が良いと見たようです。
実際、義元は家臣からの求心力があまりなく、雪斎だから話が進む事が殆どでした。

義元は太原雪斎が死んでいた事は知らないようですが、子氏真を初め、一部家臣は生きている事は知っているいたようです。

参考:前世歴史探訪 その16.桶狭間の戦い1560年 その真相とは

Ⅰ.当初は影から今川家を支えるつもり

義元とはソリが合わないものの、当初は今川家を支えるつもりだったようです。

しかし、残念な事に家臣の多くは今川義元に付いて行きません。

むしろ、地元では、自身が亡き者にした後でも、まだまだ雪斎自身に付く者の方が多かったのです。

Ⅱ.今川義元は、三河で、家臣、民衆から反感を買う

当時、領土内の西、特に三河では、義元への反発は凄かったのです。

まず民衆への年貢の取立て、さらには徴兵。
これらが厳しく、民衆からかなり反発を抱いたようです。

こういった事もあり、三河内では、今川家内部でも、謀反、離反が起こりました。

また、この機を乗じて織田家、地元の小大名も、ここぞとばかりに今川家へ攻めに転じますし、織田家に寝返った者も多かったようです。

1556年~1558年まで、三河ではかなりの暴動が起こりましたが、この他でも様々のところで反感を買う事となります。

Ⅲ.太原雪斎は民衆の心の動きに従った

1558年頃から何故か三河では争いが減ってきます。

これは、太原雪斎が間に入ったからのようです。

このように争いの諸原因の多くは義元にあったようです。

その中、織田信長、明智光秀からの協力の要請があったのでした。

太原雪斎はまず三河の民衆の事を考えました。
それはどうしても、今川義元ではなく、織田信長の方が圧倒的に適任なのですね。

織田信長が斉藤家から撤収し、民衆の為に動いている噂も聞いていましたので、当初様子見もありましたが、この頃より、太原雪斎は織田家寄りになっていきます。

Ⅳ.今川義元離反派を取りまとめる

結局ですが、今川義元への不満は、三河の民衆に限らず、今川家の家臣内でもかなり多かったのです。
一方で、織田信長の評判が良くなっていた時期でしたので、次第に織田信長へ民衆、家臣も付くようになっていました。

1559年段階では、多くの者が織田家寄りになっていたのです。
それは、どうも三河の地で作られていったようですね。

こうして、流れとしては、1560年の桶狭間の戦いになっていくのでした。

Ⅴ.徳川家康も桶狭間の戦いより前から織田信長の傘下だった

実は、離反派だった徳川家康は桶狭間の戦いの前から、太原雪斎の元、実質的に織田家の傘下だったのです。

徳川家康は、今川家時代に鈴木家との戦いで勲功がありますが、これもあえて意図して作ったようです。

このように、同様にあえて勲功を作った動きは他にもあったようです。

特に1558年~1560年辺り、桶狭間の戦いの前、三河近郊~尾張にかけて起こった戦いは、形だけで、意図的に起こした可能性があります。

Ⅵ.桶狭間の戦いでは織田家は弱ったフリをした

当時、織田家は斉藤家の戦いの為、援軍要請も小さく、弱いフリをしました。

三河は困窮していたので、美濃尾張も同じと思ったのかもしれません。
ですが、基本的には敵国でしたので、義元は多くの兵を挙兵していました。

それが、織田軍3000名に対し、今川軍が25000人程だったのです。

実際には、今川義元、この機に乗じて尾張を奪おうとも考えていたようです。

ですが、今川軍、味方の軍の8割が、敵だとは気付いていません。

1つは兵の多くを三河の者にした事も失敗かもしれません。
家臣も多くは離反者でした。

さらには、直近では、争いも減っていたし、比較的家臣も従順だったので、油断もあったのでしょう。
(これも勿論、織田信長、太原雪斎との事前計画です)

心を読めなかった、掴めなかった、理解できなかった事が最大の敗因でした。

また、武田軍は、この時今川軍と同盟を結んでいるという事になっていますが、実は、この頃より織田軍との同盟の方が優先的になってきており、桶狭間の戦いに協力しています。

武田家も織田軍に追従というより太原雪斎に付いたという言い方の方がよいかもしれません。

全ては、太原雪斎の協力のお陰なのです。

3.桶狭間の戦い以降

Ⅰ.東海では、徳川家康を三河に、他は氏真が家督を継ぐ

太原雪斎、この後は、家臣の動きを見て後押しをする事にします。

後に、徳川家康が三河を中心に東海を治めます。

また、義元亡き後は、氏真が家督を継ぐのですが、実質的な軍事・政治に関する指導は、太原雪斎の元、生きている事を知っている者が指示を出します。

ちなみに1562年~1582年まで20年間も、徳川家と織田家と同盟を結んでいることになっていますが、実質的には、桶狭間の戦いの前から織田家のずっと傘下なのです。

また徳川家と武田家の間でも、武田家の内部抗争(1567年頃)を除いては概ね戦いはありませんし(1573~75年は信長包囲網による演技)、今川家とは戦いがあったと言っても、それも殆どは内部の謀反者を確認する為のものが多く、ずっと協力関係であった所が実際の所です。

全ては、太原雪斎の協力があっての事だったのです。

Ⅱ.上杉包囲網の協力

外政では上杉包囲網に協力します。

今川軍を、織田家の他、武田家に対しては手厚く援軍を送ります。

また、1561年、上杉家が北条家を攻めた際には、武田家の噂を流す等、間接的に北条家に協力します。
(北条家だけは、形式的同盟)

このようにして、東海地方から、平和の流れが作られていきます。

それは、信長と太原雪斎との双方の考えの元だったのです。

4.織田信長、死んで生きるは、太原雪斎から学んだ

死んで生きるという手法。

織田信長、明智光秀、この時に学んだようです。

実は、太原雪斎、桶狭間の戦いで亡くなったとされる今川家の家臣達でも、この手法の者もいます。

一方、織田信長が、その実験としての1つが武田家の私の前世だったようです。
実際には引き抜きと言った方がよいですが、1561年、早速試されたのです。

また、結果としては、織田信長、明智光秀、も後々同じようになりますし。

死んで生きるという型が、平和に導くという意味ではかなり重要だったのです。

その始まりが太原雪斎だったと言って過言ではありません。

5.太原雪斎は織田信長が天下を取ると思っていた

太原雪斎は、天下を取る者、東日本では、織田信長だと思っていたようです。

後、可能性があるとすれば、北条家だと思っていたようですが、氏康は既に高齢、子氏政では若すぎる、この点で難しいと思っていたようです。

上杉家は戦いは強くても民衆をまとめる力が無い。
一方、武田家は家臣での内輪揉めが多い。
今川家も民衆、家臣をまとめる力が無い。

亡くなるまで(1576年)ずっとそう思っていたようですね。

ですが、最終的には、江戸幕府を始める者。
まさか自分が教育していた徳川家康になるとまでは思っていなかったようです。

徳川家康は、若い頃より織田家と今川家を人質として往復していましたし、今川家時代では、太原雪斎が教育もしていたのですが、徳川家康、こう見ると、死んで生きた人達に守られ続けていた事が判ります。

不思議な存在ですね。

6.まとめ

太原雪斎は、表向き在命中も、今川家の繁栄に多大な貢献をしているのですが、死んで生きた後には、戦乱の日本を平和に導く多大な貢献をしています。

この流れは、織田信長、明智光秀にも受け継がれており、最終的には弟子でもあった徳川家康によって江戸幕府を切り開く展開に導いている事が凄いですね。

<<前に戻る
>>次に進む
カテゴリートップへ戻る
前世の法則トップに戻る