前世歴史探訪 その11.西日本統一1588年 足利義昭、影の協力者

前世歴史探訪

1573年足利義昭は織田家に服従せず、追放という形になります。

ですがこれは表向きの話。

その後、彼はまだまだ重要な役割を果していくのです。

足利義昭と織田信長は敵対化していた記述が、現代でも圧倒的多いのですが、全ては和睦を図る為、最善の演技をしていたからなのです。

11.足利義昭、征夷大将軍が続いたその理由

実は、足利義昭。その後、豊臣秀吉が関白になるその後まで征夷大将軍を努めています。

実は、足利将軍は15代全てが征夷大将軍なのですね。

足利義昭の征夷大将軍在任期間は1568~1573年説もあるのですが、これはどちらかと言えば、京都に居たという実態を元にしている説と思います。

公卿補任という歴代朝廷高官の名を列挙した職員録では、1588年まで在位という事になっていて、近年ではこちらの説が有力となっているようです。

ですから1568~1588年。実質20年程、征夷大将軍を務めているのです。
しかも、豊臣秀吉にその役割を継ぐ間、日本を本当に平和に導いたのですから、その功績はかなり凄いものです。

200年以上続いた足利将軍の名声は特に地方では効果を発揮したのも事実です。

実は、この事が、多くの諸大名を動かしたり、止めたりできたから。
だからこそ、日本を平和に統一する事ができたのです。

・・・というより足利義昭については、実は多くの者から愛されたいたようなのですね。

本願寺家からも何とかしてやりたいという思いも相当強かったようです。

織田信長は勢力拡大の中、いくら愛が深くても敵が多かったのですが、足利義昭は滅びゆく幕府の立場の中。
実は、多くの者に愛されていたようなのです。

12.足利義昭、追放後からの3年間(1573~1576年)

追放以降、多くの者からみて、足利義昭は悪役に映ったと思います。
しかし、実態を知っている者には、足利義昭が悲劇のヒーローに映っていたはずです。

特に足利義昭の勅命等も含め、幕引きまで見事だと思ったようです。
判る人にはそれが判っていたようです。

Ⅰ.足利義昭の協力者

どうも彼の幕引きに心打たれた者が本願寺顕如、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)、三好家、毛利家等からも愛されたようです。

信長は、彼を京都に戻そうと演出します。
しかし、義昭は断り、表向きまで悲劇の存在となっていきます。
そして信長の敵方軍まで、義昭の事をほっとけなくなっていきます。

実はその後、三好家の城に泊まったり、本願寺顕如に案内してもらったり、羽柴秀吉が同行したり、また、京に戻る事への説得を毛利氏が行ったり。敵味方関係なく、彼の元に人が集まるのです。
ある意味、人の心を掌握しているような状態でもありました。

1573年~1574年はあちこち転々としている状態でしたが、1575年には、紀伊国、畠山氏に治まるようになります。

Ⅱ.武田家と上杉家間で和睦を実現

1575年には東でまだ勢力として残っていた、北条家、上杉家、そして、家督で揉め独立して間なしの武田家、この3者で和睦の命を出します。

上杉家は北条家とは長年の敵対関係から和睦はできないという事でしたが、武田家とは和睦を1575年10月に結ぶ事になりました。ですから、この時に上杉家は実質上、織田家と同盟を結んだ事になっています。

これは、実質的には大きな出来事です。
東で、残るは北条家だけとなってきました。

13.信長は西方面に仕掛けをする(1573~1576年)

信長は義昭追放後、それまで同盟関係でもあった毛利家に仕掛けを施します。

信長は例の方法を使っていました。民だけを味方にする方法です。

Ⅰ.浦上家と毛利家の戦い

1573年12月、浦上宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を認めるというものです。

浦上家は備前・播磨・美作を元々治めていたのですが、既に毛利家の傘下になっていて、この段階では毛利家の領国でし。いわば毛利家の両国の民だけを織田家が領有したのです。

また、浦上家の傘下を脱していた宇喜田家もこの時に敵対勢力となります。

浦上家は大友家の支援を受け、毛利家から独立制の強い三村家を味方に引き入れます。

Ⅱ.毛利家と織田家は実質敵対関係に

この後。
毛利家・宇喜田家 対 浦上家・三村家・大友家の戦いになります。

1575年6月、毛利家の勝利となり、中国地方一面、毛利家の領域となります。

ちなみにこの時は、織田家は動いていません。毛利家周辺だけでの戦いです。

この後、毛利家は、間接的に浦上家を支持していた織田家と対立する事となります。

14.足利義昭、毛利家の元、備後国の鞆に移る(1576年)

足利義昭は、毛利輝元の元、備後国(広島県)の鞆に移り幕府を起こします。

実は、この移動には深い訳があるのです。

Ⅰ.西日本で最後まで抵抗するのは毛利家と判っていたから

その理由を足利義昭には伝えていないのですが、織田信長はこの段階で、西日本で最後まで抵抗する勢力は、毛利家と踏んでいたようです。

足利家は全国的に本拠を置けるところはたくさんあったのですが、この毛利家の所領を選んだのは、こういった点があったようです。

前世の関係もあって、織田家(豊臣家も含め)と毛利家はどうしても敵対化するのは避けられないと思ったのでしょう。

狙いは、型としては毛利家を周りから包囲。
中からは足利義昭によって心を掌握する。

内と外からで挟むのが理想だと見たのです。
以降、この備後国、鞆の地は西日本ではある意味拠点となります。

Ⅱ.第三次信長包囲網

1576年早々再度、上杉、北条、武田家の和睦をもう一度出します。
今度は毛利家の後ろ盾もありました。

また、これは、同時に信長包囲網でもありました。
(第三次信長包囲網とも言われています)

織田家にとって、武田勝頼の内乱をどうにかしたいという意味がありました。武田信玄が去った後、内部での揉め事は大変だったのです。

また、織田家にとって、上杉家は同盟的立場でありましたが、その後の動向がまだはっきりと判らないとも思っていました。

これに、毛利家、本願寺家が入る形になります。

Ⅱ.毛利輝元の上洛失敗

1578年10月、摂津国荒木村重が織田家に反旗を翻すと同時に、本願寺家を筆頭に反信長勢が動きだします。

また11月には武田勝頼から協力要請も起こります。

勿論、足利義昭も上洛のタイミングと押しかけます。

しかし、この時自国で謀反が起こったり、そうは言っても備前・播磨・美作の民は織田家の息がかかっている。
後ろには大友家も控えている。

毛利家内では、罠の危険性も考えていました。
毛利輝元は、毛利隆景の説得を受け上洛断念をします。

Ⅲ.その後、勢力が衰える

突如上洛を止めた為、中国地方の反織田勢は毛利家から心が離れます。

その後、1579年6月、宇喜田直家が織田家に離反します。
備前と美作の領有を織田信長が確約した為です。

また9月には山陰地方を治めていた南条氏も織田家に離反します。

1580年には本願寺家が遂に信長と停戦になり、大坂にあった毛利家の勢力は壊滅します。

このように、毛利家の勢力は次第に衰える事になります。

Ⅴ.足利義昭、本能寺の変までの功績(1576~1582年)

第三次信長包囲網によって、上杉家が実質傘下の流れになります。東は北条家だけに。
武田家も最終的には勝頼の家督の問題で自滅します。その後、多くの家臣は様々な形で織田家に入ります。

また、西日本では、毛利家に入った事で、どうしても織田家と対立せざるを得なくなり、その結果、宇喜田家や、南条家が軍門に下ります。また本願寺家も度々停戦要請で足を止め、最終的に織田家と停戦を結ぶ事になります。

15.毛利家、本能寺の変後(1582~1587年)

豊臣秀吉は、本能寺の変後、内部問題を解決し終え、かなり広域の所領を提供する代わりに毛利家の降伏を迫ります。

この間かなり時間がかかりましたが、1585年1月、毛利家の降伏がようやく成立します。
実質、ここで西日本統一なのですが、まだ表向きは四国、九州諸大名は敵対関係という事になっています。

これは織田信長の計算があったのですが、その後、秀吉は毛利家を使って攻めさせると見たのでしょう。このようにして毛利家を消耗させ、かつ日本統一をさせる。という流れを予測していました。

毛利家はその後、1585年3月~1587年5月にかけ、紀州、四国、九州、いずれの地にも、秀吉軍からは攻撃の協力要請させられ、疲弊します。紀州、四国、九州の地の諸大名は、実質的には本能寺の変の段階で軍門に下っていますから、待っているだけです。

そして最後1587年5月に島津家の降伏を持って西日本の戦いが終わり、表向きも西日本の統一を果たします。
毛利家を疲弊させた状態での西日本統一です。

この間、足利義昭は、九州。四国の諸大名と、秀吉の和睦を図る命を出す事が主でした。

16.足利義昭のその後(1588年以降)

西日本統一を果した後、1588年に京に戻り、正式に将軍職を降りる事になり、その後は豊臣秀吉が継ぐ事になります。豊臣秀吉より京に1万石の所領を受取っています。

以降、足利義昭は豊臣秀吉の良き話相手となっています。
朝鮮出兵にもずっと付き合っています。
(義昭は1597年に亡くなっていることになっていますが、実はその後余生をかなり長く送っています)

ちなみに、足利義昭は本能寺の変を起こす事は知らされてませんでしたが、後に光秀、信長とはその後会っていますので、本能寺の変の真相は判っていたでしょう。

このように足利義昭は、豊臣秀吉の日本統一にはどうしても欠かせない存在でした。
また、それは織田信長、明智光秀の願いでもありました。

17.まとめ

足利義昭。
表向きは、裏切り者、反織田家にしか見えなかったと思いますが。
しかし、それは演技で、取りまとめる事ができたのは、足利義昭の協力があったからと見ています。

しかも、戦いは極力少なく終わらせる事ができていたと思います。

だから、最期まで、誰からも大切にされていたのですね。

平和の世の実現。
それは、彼の影の協力による部分がかなり大きいのです。

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