前世歴史探訪 その23.明智光秀 戦いでは透視とテレパシーを使う

前世歴史探訪

明智光秀は、上杉包囲網(1561~1567年)を成功させた後、足利義昭上洛に協力します。

また、上洛後は元々地元だったという事もあり、京都周辺の政治、戦いを任される事となります。

細川藤孝が織田軍の元、明智光秀と、一緒になる頃合いもやはり1570年頃からですね。

元々明智光秀は透視能力を持っていましたが、ひふみの法で霊的能力が上昇した後は、戦いでテレパシーを使い、短期決戦で終わらせる事を得意とします。

8.細川藤孝と明智光秀との関係

Ⅰ.細川藤孝に仕えていた説がある理由

どうも、明智光秀が細川藤孝に仕えている説がいくつかありますが、これも前世の記憶と照らし合わせてみますと、非常に面白い事が判りました。

将軍・足利義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載、古代中世から1200冊以上の史書からとりまとめた記録史)には足軽衆「明智」という名があるそうです。

この事から明智光秀は足利家に仕えていたのでは?と思われている説があります。

ですが、この由来がわかります。

記録に残っているのは、細川光秀時代に仕えていた足軽衆達の事、もしくはその中の誰かだと見ています。

ですが、細川晴元は最終的に足利家にとって根深い敵対関係になったので、細川の名を付けるのは嫌だった。
もう1つは活躍、光秀への応援の意味もあり、当時の進行形の明智の名を取った。
そのような経緯と見ています。

明智光秀の名を襲名したのは斉藤家に仕えて間なしの1556年のこと。
その時に信頼があった家臣から「明智」の名を借りたのです。

当初は光秀は、足利家を守る為、六角家を挟む形を意識して斉藤家に行きましたが、斉藤家ではすぐ謀反が起こり、その後織田家に付く事になりました。(一応は織田家家臣時でも六角家への牽制意識はあったと思いますが)

この流れで、足利家の中では、明智光秀として名を残したかったのだと見ています。

またルイス・フロイスの記録では、細川藤孝に仕える足軽・中間。
という記載もありますが、明智光秀は、そもそも足利義輝に仕えていた事を公にする訳にもいかなかったのですね。

やっかみ、妬みや、何かある度に特別扱い、そして揉め事の可能性がある。
という事でずっと伏せていたのだと見ています。
これは光秀自身の意向が非常に強かったのだと思いますが。

そこで、足利義輝政権崩壊後、整理をしていた細川藤孝が実際にも将軍代理的な事をしていましたから、細川藤孝に仕えていたという事に話が変わったのだと見ています。

正確に言うなら、

明智光秀は細川藤孝ではなく足利義輝に仕えていた。
それもかなり若年の頃。

という事が正しいのです。

このように明智光秀は、実態としては、細川藤孝には一度も仕えていません。

Ⅱ.1570年京都奉行段階では、明智光秀の評価は低かった

明智光秀は元々京都に居ましたから、織田軍の中では、京都周りの内政を主に任される事となります。

ですが、織田信長からは軍事方面での信用は、まだそこまでありませんでした。

実際、明智光秀は、東北大名と繋げる役目。ですとか。
遊説、という表向き評価されにくい仕事が主でした。

当初は、弁舌だけやたら評価されていたようです。

ですが、実は、東北大名の取次ぎをした際には、騎鉄(騎馬に乗り鉄砲を使う)で大活躍。

ただ、この当時の鉄砲の性能は知れていましたので、使い方としては、
効果的に相手馬を混乱させるとか。
火薬を仕掛け、火の魔術師的な印象を与え動揺させたとか。
ですけどね。

この他、引いたり攻めたり、軍事でもかなり活躍しているのですが、武田軍の中での話という事もあり、織田信長には、まだそこまで信用されていませんでした。

武田家というのが、どうも相手を立てるという事があまりなく、手柄は全て武田家が持っていくというのも実際のところです。
(そもそも騎鉄という話すらしていないと思いますが)これは、武田家での前世の記憶からも間違いありません。

ですから、この段階では、まだ明智光秀は、軍事方面での評価が殆どされていなかったのです。

Ⅲ.出世のきっかけは織田信長の霊的能力が上がった為

ですが、この後、信長の霊的能力が上がる度に、光秀の実態が後から判ってくる事になるのですね。

それまで、信州での戦いは武田家主導と思っていたのが、実際には明智光秀主導だった事が後から判ってきたのです。

実際にも、その後明智光秀は、三好三人衆との戦い(1569年)や、姉川の戦い(1570年)、浅井家との戦い(~1573年)、で大きく活躍する事となります。

光秀の事が史実としてこの辺りから話として出てくるのは、1つ織田家が、武田家を立てているからという事もあるようです。

Ⅳ.細川藤孝、明智光秀とはセットの関係性に

足利家臣時代でも、細川藤孝、明智光秀と共に軍を率いるような事もよくありました。

意思疎通はお互いかなり慣れているのです。
相手の考えている事、性格、そして得意分野もよく判っているのです。
(それは前世からかなりずっとという事もありますが)

これまで、時間密度の濃い前世を何度も送ってきていますから、自然とそうなってきます。

それは信長公も霊的能力の覚醒と共に判ってきます。

ですから、1572年辺りからは、細川藤孝と明智光秀は、軍では一緒になる事はかなり多いですし、指揮を執るのもこの頃からは、明智光秀が多かったです。

この関係性が、慣れているという事もあるのです。

Ⅴ.明智光秀、ひふみの法は信長から学ぶ

明智光秀、ひふみの法は、信長から学んだようです。
藤孝から教えた記憶がありません。

実は、光秀も生まれもって霊的能力は非常に高かったのです。

透視能力は生まれつき持っていたようですし、精度もかなり高かったようです。

戦いの際は、まず周りを見渡した後、
「あの辺りに兵が潜んでいるから」
と、透視をベースにして、戦略をその場で決めていた感じです。

また、相手側から動きがあった際にも急に映像が見えたりしていたようです。

このような能力があると、指揮する上では非常に有利ですね。

この他にも、学問も押しなべて秀でていました。
元々医者で生計を立てていた説もありますが、実際、足利家臣で若い頃、負傷兵の手当てもしていたようです。この事からも医学の知識もあったようですね。

その上、天才的なのが弁舌です。

彼の霊的能力がさらに上がり出したのは、信長公と同様に1571年頃からですね。

Ⅵ.テレパシーを使った戦い

後年、さらにテレパシーの能力等が発揮されます。
(テレパシー能力はどうも光秀の方がに開花したようです)

織田軍の傘下後、テレパシーを使った戦略では、1577年の紀州攻めの頃からこの方法を使っています。

光秀から聞いてさらに私がさらに指示する。
そんな感じだったようですね。

ですが、このような能力を持っている事は他の者には味方であっても言えません。
光秀が様々なサイキック能力を持っている事を知っていたのは、織田軍では、織田信長と細川藤孝だけだったように思います。
(後は、一部の占術師ですね)

透視能力がある上、テレパシーも使えましたから、戦いは非常に効率よく短期で終わる事が殆どでした。

彼の様々な能力は、やはり指揮を執る事に向いていたのです。

Ⅶ.ひふみの占術師は皆共通したのか

これは基本的にはそれぞれバラバラですね。

織田信長。
明智光秀。
細川藤孝。

全員違います。

ただし、3人とも共通している人も1名居ましたし、この内、2人だけ共通する人も居ました。

ひふみの法の人もそれぞれの人によってバラバラなのです。

ですから、次元上昇のタイミング、能力の上昇もその人によって違ったのですね。

<<前に戻る
>>次に進む
カテゴリートップへ戻る
前世の法則トップに戻る