前世歴史探訪 その16.桶狭間の戦い1560年 その真相とは

前世歴史探訪

ここまで何度か記載している通り、1558年~1565年の7年間。
足利義輝の死までで、日本中の勢力が大激変しています。

その中でも織田家の勢力がその後大きくなる起点となった戦い。
今回は、謎に包まれている桶狭間の戦い(1560年)についてです。

僅か3000人の織田軍が25000人という大群の今川勢に奇襲で勝った。
という事が史実となっていますが、しっくりこない人の方が多いと思います。

実は、奇襲というより、戦う前から結果は決まっていたのです。

当時、今川家と言えば、東の勢力的には、北条家、上杉家の次の3番手だったのですが、何故こうも簡単にひっくり返ってしまったのか。

また、その後今川家が、当時弱小国織田家の傘下にあっさり入ったいきさつの不思議。

それは、人の心の想いにあったのです。

しかもそれは戦いではなく、平和への想いが生んだ結果だったのです。

1.織田家の発展は、明智光秀の参入から

1556年、斉藤道山が義理の子義龍の謀反を起こすまでは東の1大勢力ではありましたが、求心力は道山の方があり、謀反後、義龍に対して、家臣の心は離れていきます。

1558年、織田家の斉藤家への攻撃計画を機に斉藤家の有力家臣が織田家に入ってきます。
織田家は戦う手法を止め、民衆の心を掴む作戦に切り替えたのです。

参考:前世療法体験談 vol.8 戦国時代愛知 セルフ前世療法の覚醒

実は、この後、心を掴む作戦が織田家の戦略の主になるのです。

この時以降、織田家で活躍するのが、明智光秀なのですね。

明智光秀の存在は現代ではかなり消されていますが、この時より織田家の有力家臣、と同時に有力軍師にもなるのです。

2.明智光秀の特技

明智光秀はそうは言っても、弁舌です。

特に無い話を有るようにするのが得意なのです。

織田家の軍門に下った最初の仕事が、美濃の民衆への説得ですね。

元々、美濃の軍師が、尾張の軍師に変わったその理由。
をどんどん語るのです。

実際には、民衆の為に戦いを止めたのですから、ありのままの事実を言うだけでも信長の求心力を上げる事が十分可能なのですが、これに輪をかけてさらに偉大な存在に見せかけるのですね。

ですから、織田信長の年少~若い頃の話は、中には作られているものもあるかもしれません。

3.1558~59年、美濃尾張周辺で民衆への説得

織田家の軍門に下ってから1年程は、民衆への説得をしていきます。

光秀の弁舌も凄いのですが、本当に凄いのは、民衆は織田信長が本当に凄い存在だと皆に思わせていて、一方で光秀は大して目立った存在でもないのですね。

ですが、一部の人達はやっぱり光秀が凄いと思った人もいるようなのです。
だから美濃尾張周辺では光秀人気は高いのかもしれません。

いずれにしても、民衆の心を掴む事を先にしたのでした。

このお陰で、美濃の所領の南側殆どは、斉藤家に治めず、織田家に治めるようになります。

所領で区切るの発想ではなく、心を掴む発想で人を動かしたのです。

4.桶狭間の戦いへの準備

この噂は、民衆を通じ美濃尾張に留まらず、近隣国にも自然と広がります。

武田家の家臣だった前世の私もこれに協力をするのですね。
信濃国近辺は私の前世が広めていたのですが、まあ敵ながら凄い存在。
という感じでですね。

広めた当初は武田家の家臣内ではそこまででもなかったのですが、民衆には広まっていったようです。
桶狭間以降は、さすがの信濃国でも織田家に一目置く事となるのですね。

このようにして近隣国の民衆には、織田信長の凄さはかなり広まる事となったのでした。

戦わずに民衆を守る。
という意識は多くの人の心を掴んだのです。

5.近隣の家臣達も心動かされる

その噂はやがて、敵国の家臣の耳にも入ってきます。

今川家の家臣も例外では無かったのでした。

特に大名、今川義元の求心力はそれ程無く、勢力的には東国NO.3であっても、家臣内のまとまりは、あまりうまくいっていなかったのです。この頃、心動いた者もかなり増えてきたようでした。

実は、今川家、当時東ではNO.3までのし上がれたには理由がありました。
とある重臣のお陰です。

6.今川氏の重臣、太原雪斎の心を動かす

Ⅰ.今川家の発展は太原雪斎の力が大きかった

今川家の発展に大きく寄与していた人物は太原雪斎でした。

軍師という立場もありましたが、どちらかと言えば僧侶の色が強かったようです。

そもそも今川義元の幼少からの教育係だったのですが、当時有力な僧になるはずだった太原雪斎の能力の高さを買い、義元の父親、氏親から、義元の参謀役として要請を受けていたのでした。

ですが、当初どうも家臣になる事には正直抵抗もあったようです。
本音は僧になりたかったようでしたが。
また、義元の教育まではできても、参謀役としてはずっと続く自信が無かったようです。

また、今川家も、家督で揉めており、この惨状からも、気が乗らなかったようだったのです。
彼は、事前から滅ぶ家系の典型例という事が判っていたようなのですね。

ですが、氏親亡き後、数年間、異母兄弟間で家督で揉めていた今川家。

最後は今川家の重臣であった父親の説得に折れたようでした。
これも自分の生きる道と決心したようなのです。

Ⅱ.太原雪斎と今川義元はソリが合わない

太原雪斎は主に話し合いによって、戦いは起こさずして勢力を広げる発想を持ち合わせていたようなのですね。

実際、武田家や北条家とも、主に話合いで平穏を保っていたようなのです。

一方、義元はその逆の所があり、戦い好きのところがあったようです。

ここからも判ると思うのですが、求心力は、太原雪斎の方が圧倒的にあったのですね。

ですから、今川義元の命というよりは、太原雪斎の命だから動くという事も実際にはあったようなのです。
(一方で、義元から見るとこれが面白くなかったようですが)

今川義元によって勢力拡大した所もありますが、基本的には太原雪斎が動かし、その手柄を義元に与えていた事が多いようです。実際の所は太原雪斎の人望の元、勢力拡大できたといっても良いようなのです。

Ⅲ.太原雪斎、実は生きていた

彼は1555年、60歳で亡くなったとされていますが、実はその後生きていたようです。
大名義元、とは上手くやれなくなってきたのが一番の理由です。

当時、自身が60歳に対し、今川義元も35歳。

もう今川義元もあんまり太原雪斎の意見を聞かなくなってきます。

ですが、戦国の世。
辞めると多くの家臣が危険にさらされます。

完全に辞める訳にもいかず、死んだ事にして生きる事にしたようです。
死んだ事にして、後ろから動かす方が良いという判断だったのでしょう。
彼の死は、義元は知らず、息のかかった家臣だけは知っていたようです。

以降、今川家の中でも勢力図は2分されていたようなのですね。

今川義元派の者。
太原雪斎派の者。

実際には、やはり太原雪斎派の者の方が多かったのですが。
家臣としても、迷っている者も多く大変だったようです。

Ⅳ.太原雪斎、明智光秀から話を持ちかけられる

太原雪斎はこの後、今川義元を影で支える関係が続きます。

やがて、彼は織田信長の噂を聞く事となります。

やはり、敵ながらも感覚、思考、そして器と、全て織田信長の方に軍配があると思い、また共感するのでした。

そんなある日、明智光秀から話を持ちかけられるのですね。

既に心も動かされていますし、その上での説得ですので、もう心は織田家に下っていたのでした。

桶狭間の戦いの中でも、一番の重要ポイントはここにあります。

これが、1560年の事でした。

7.桶狭間の戦い

実はあの桶狭間の戦いは奇襲という事になっていますが、実際の所は、平和の思いから動いたのでした。
それは人の心にあり、最初から勝敗は決着していたのです。

ですから、実は織田軍3000名 対 今川軍25000名

という事になっていますが、実際の所は、

織田軍3000名+織田軍に下った今川軍20000名 対 今川軍5000名の

戦いだったようなのですね。

さらにここに武田軍も織田軍に加勢しています。
(史実には出てきていないようですが。)

また、最終的な狙いは、織田家は今川軍に戦いを挑む事ではなく、実質敵となりそうな今川軍5000名をなんとか命を落とさずに味方に取り込もうとする事だったのです。

この作戦は、織田信長、明智光秀、太原雪斎、を交えて練っていたようです。
それが、桶狭間の戦いの真相なのです。

太原雪斎は、敵になる可能性の高い今川軍5000名については、説得の自信があったようです。

8.部隊をなるべく分断するのが目標

要は今川義元だけが倒れれば、後は何とかなるという事だったのです。

ある日、織田家は今川家に協力要請をします。
それは、対斉藤家の戦いとしてです。
(但し、架空)

実は、地元で広がる噂もあって、今川義元は、半分は美濃尾張の街の雰囲気や、織田信長の評判等も合わせて確認したいと思っていて、この話に乗ってきたのですね。

そこで、25000名の軍隊を送って、自身も動きます。

そもそも地形的にですが、美濃に向う途中は、軍列が長く細くさせやすいのです。
これを利用したのです。

そこでなるべく、敵になる可能性のある5000名をなるべく細かく切り離すように編成したのです。

狙いは、今川義元周辺の部隊だけだったのですね。

そして実際には、その今川義元周囲の部隊200名強だけとの戦いで終わる事になったのです。

史実に比べると被害はそれ程でもないのです。

9.桶狭間の戦いで一番の疑問

そうは言っても今川家は当時、東の大名ではNO.3の存在です。
当時の織田家よりも格段に大きい訳です。

当時の織田家の勢力は規模的には今川家の半分以下ですし、正直地方大名の1人という事なのです。

ですが、あっさり下克上。
その後もすんなり、今川家の多くが織田家の傘下となっているのです。

その時に揉め事は起こらなかったのか。
普通はここでも大きな戦いとなって当たり前のはずなのですね。

特に大きな国を傘下にする事ってそんな簡単にできる訳が無いのです。

しかし、その揉め事は殆ど無かったのです。
それは、何故か。

それは、先に多くの人の心を掴んでいたからなのですね

桶狭間の戦い、織田家の勝利の源は3000名の軍勢だけではなく、美濃尾張他多くの民衆でしたし、敵であるはずの太原雪斎の協力だったのです。

それは、如何にして多くの人の命を落とさず、戦いを減らすか、平和の思いにあったのですね。

10.まとめ

桶狭間の戦いも、その真相は、多くの人の平和への想いから始まったのです。

そして、多くの人の心を掴む事になったのでした。

だからこそ、織田家はこの後、勢力を伸ばす流れを作れたのです。

この段階で、織田家の協力者は、尾張国だけでなく、美濃国の多くの民衆、そして、今川家に関わる多くの人々。
また、武田家の一部。等、かなり広範になってきています。

そして、東側の勢力を伸ばす起点となるのですね。

現在残っている、桶狭間の戦い、その殆どが後付けの話なのです。

ちなみに太原雪斎、この戦いの後も死んだ事にして生きており、1576年辺りまで東海地方を影で支える存在となったのでした。享年81歳。

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