前世歴史探訪 その4.壬申の乱672年(後編)被害者同士の戦い

前世歴史探訪

兄弟の対立から始まった壬申の乱でしたが、実はそれで終わった訳では無かったのです。

4.壬申の乱(後編)

壬申の乱の後編です。

飛鳥朝に残った大海人皇子は、美濃尾張方面に勢力を拡大。
近江京遷都した中大兄皇子は反発を招き、年々衰退。

5年間の差は大きく、672年に琵琶湖を挟んで戦いが始まりましたが、案の定、大海人皇子が圧倒的優位に攻めます。

その後、中大兄皇子の援軍がようやく到着しましたが、それはとんでもない結果となったのです。

Ⅳ.飛鳥朝に対する反乱軍が圧倒的多数

召集をかけて集まった兵もいましたが、実は飛鳥朝に対する反乱軍が圧倒的多数になってしまったのです。

つまりこれを機会に飛鳥朝ごと倒してしまおうと。
先陣を切ったのは九州国家群の者のようでした。

ですが、白村江の戦いからのダメージは大きく、九州国家群は、9年ではそれ程国力は回復していません。
ただ、九州国家群以外にも反飛鳥朝の民衆も多く、最終的反乱軍は2万人程集まりました。

彼らはまず、飛鳥朝を倒すか近江京を倒すか意見が分かれていましたが、先に近江京を倒す事が目標となりました。皆思いは恨みのある方にと集まったのです。

近江京に攻め込むにあたり、近江京の西側より、南側と北側から挟み撃ちするような形になりました。
このようにして、近江京は大海人皇子軍ではなく、反飛鳥朝軍によって討伐される事になります。

ちなみに、近江京が東軍と西軍と挟まれ攻められる型。
このような型は後年何度も繰返す事となります。

しかし、戦いはここで無事終わってくれませんでした。

V.悲劇

その後は反飛鳥朝軍対、大海人皇子軍の戦いとなりました。
そのまま暫く1ヶ月程、続いたのです。

これは、反飛鳥朝に対しての負の念が、そのまま戦いになったのです。

本当の争いが激しくなったのは、むしろここからです。

この為、近江京周辺地域では、かなりの人が亡くなる事になりました。
ですから、近江京周辺が気が重いのはそういった事にあるようなんですね。
北は坂本方面に抜ける道。南は東山~大津にかけて。

最終的に壬申の乱で亡くなった人は総勢約2万人程と見ています。

しかも、その多くは、反飛鳥朝軍対、大海人皇子軍の戦いでのことです。

まさしく日本最大の内乱。には違い無かったのです。

Ⅵ.停戦、説得を通じてようやく終戦へ

大海人皇子は、反乱軍とはそもそも戦う気はありませんでしたので、その後停戦、説得、を通じて何とか戦いは治まりましたが、それでもかなりの人が亡くなりました。

壮絶な内乱となりましたが、最終的に一番人が生き残ったのは、美濃尾張~近畿一円を制した飛鳥朝だったのです。

この後、大海人皇子は翌年673年に天武天皇として即位します。
この時以降、飛鳥朝が繁栄する事になります。

5.壬申の乱とは、被害者同士の戦いだった

そもそも大海人皇子は、中大兄皇子と意見が合わず、むしろ九州小国家群からは恨みを買ってしまい、どちらかと言えば被害者なのだと思います。

いくら意見で反発しても、取れる行動は1つしかありません。
白村江の戦いまでは、どうしても兄のいいなりだったのは仕方ありません。

その理由の1つとして、大海人皇子は、中大兄皇子より8歳くらい下なのです。

書では、大海人皇子の方が3歳程年上になったり矛盾点も多いのですが、後年、大海人皇子が中大兄皇子の年齢を若く書きかえた可能性が高そうです。

当時、書には天皇の年齢が記される事は無かったそうです。例外的に中大兄皇子の年齢が書かれていたそうですが、恐らくながら大化の改新を若気の至りとしたかったのでしょう。

中大兄皇子が大化の改新のクーデターを19歳位で実行したという事になるのですが、その影響力の大きさ。藤原氏を誘導している実態。周囲の権力者の年齢。恐らく30歳位に仕掛けたのが自然で、これは後年、天武天皇が書き換えた可能性が高いと見ています。

こうして、兄のいいなりで、大海人皇子は、我慢し続けてきたのです。
そして、明確に反発し始めたのが、667年近江京遷都なのです。

一方、九州小国家群も白村江の戦いで大きな被害を受けました。
広くは近江京崩壊までずっと被害を受け続けきたと言ってもよいかもしれません。

しかし、壬申の乱は本来は兄弟間の確執が、最終的には国民の負の想念から内乱へと変貌を遂げてしまったのです。

最終的には、大海人皇子軍 対 西日本小国家軍の戦いが、一番人が亡くなったのです。

被害者同士の戦いが、一番多くの人を亡くした。
それが、壬申の乱なのです。

白村江の戦い~壬申の乱までの約10年間。
その間で亡くなった者は約6万人。

当時の人口規模で言えば、1割近いのですね。

その原因は、多くの人の負の感情にあった事には違いないのです。

6.まとめ

Ⅰ.大海人皇子は愛の書き換えをした

壬申の乱。
当初は兄弟間の揉め事から始まったのですが、
最後は日本を巻き込んだ被害者対被害者の戦いになったのです。

しかし、後の日本書紀では、そうでは無かった事にした。
という所が実態でしょう。

大化の改新については、兄の若気の至りとしたかったようです。
大友皇子とは戦ってもいないのですし、命を奪ったのは兄でしたが、天武天皇は、自分がした事として罪を被ったのです。

また、争いの原因はあくまで自分達兄弟間の問題としておきたかった。

書に残そうとした事は、多くの人を巻き込んだ負の問題を背負おうとしたのです。

Ⅱ.天皇家の実質政権基盤の始まり

実質的な政治基盤ができたのは、この天武天皇からと言ってよいと思います。

書に残り始めたのもこの頃からです。
その後、天武天皇。持統天皇(天智天皇の子、かつ天武天皇の正室)によって、その後の日本の天皇制の型が始まったと言ってよいでしょう。

では、それ以前はどうなのか。

特に大化の改新以前も、天武天皇以降によって書き換えられたと言ってよいのです。
愛のある書き換えとも言えますが、実は、全てがそうとも言い切れないのですね。

Ⅲ.岩戸が閉まった後は、常々争いが絶えない

実際、その後の天皇家を見てみると判りますが、争いが常に絶えませんでした。

天皇家主導と言える政治は奈良時代まで。
奈良時代では、内乱が度々起こりますし、地方豪族との実質的対立もありました。
最後には莫大な仏教投資で権威を示そうとしますが、失敗し、政権維持ができなくなります。

その後は、時の権力者の戦いに巻き込まれている時代が殆どです。
早世も多いですし、2歳で即位ですとか、明確すぎる政治利用もあります。

これは岩度が閉まった事に理由があります。

私の前世からの記憶では、この壬申の乱で命を落としたようです。九州国家群側についていたようですね。
天武天皇が、その時の相手という事から思い出しました。(天武天皇は、魔術師的側面も合わせ持ってもっていたと見ています。)

私のライフレコードに関しては、その後、皇室に関わるの争いに巻き込まれていくようにもなります。

参考:前世療法体験談 vol.7 奈良時代奈良 呪詛で苦しむ前世
参考:前世療法体験談 vol.13 理不尽な裏切りに遭った前世 平安時代京都

Ⅳ.今後しなくてはならない事

1つはっきり言える事は、あの大化の改新は、日本を大きく変えた出来事には違いないのです。
あの時から岩戸が閉まりましたからね。

それが現代まで続いている。
1400年近く続いているのです。

実は、世界に長く広く渡って起こっている宗教戦争も、型としては似ています。

突き詰めると、被害者同士が戦っている。
これが戦争なのです。

恐らくこれらを解決する時が、岩戸を開くという事になるのだと思います。

それは、平たく言えば、個々の争い、負の感情連鎖を無くす事にあります。

夫婦・親兄弟・恋人・友・知り合い・そして前世からの敵。

前世ヒーリング、前世療法を受けますと、前世の自分に対して変化を及ぼす事ができます。
このような中で、敵対化、対立化、いじめ問題、迷っている人は、是非一度受けてみてください。

あなたの前世が浄化される事はあなたの現在を浄化すること。
それは即ち、直接、現在の世の中を変える事と同じなのです。

被害者同士の戦いは、それは個々の人間関係でもよくあるのですが、個々の負の感情が浄化されますと、それは人類全ての争いを止める事になるのです。

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