前世歴史探訪 その5.関が原の戦い1600年 壬申の乱と型は同じ、歴史は繰返す

前世歴史探訪

1600年、豊臣秀吉亡き後、中央官僚側石田三成率いる西軍16万対徳川家康率いる東軍9万の戦い。
5ヶ月程かけそれだけ人が集まったのに、

僅か、数日で戦いは終わり、東軍の勝ちという謎に包まれた戦い。

その後3年程で徳川家康により幕府樹立のきっかけとなりました。

歴史は繰返すと言いますが、実はこの関が原の戦いと壬申の乱。
型、原因、その経過年数。ほぼ全く同じなのです。

今回は、壬申の乱後、負の感情連鎖が、実は続いていたというお話です。

それは900年以上の時を経て再現されたのです。

1.関が原の戦いと壬申の乱と、型は全く同じだった

中央の政変⇒
中央で謀反⇒
朝鮮出兵によって西日本諸国に反発を招く⇒
東西の戦い⇒東軍の勝ち、中央衰退、
東軍が都を擁立

これは壬申の乱も、関が原の戦いも全く同じなのです。

Ⅰ.年数経過まで同じ

壬申の乱

大化の改新645年⇒
孝徳天皇崩御654年⇒
白村江の戦い663年⇒
壬申の乱672年⇒
藤原京擁立675年

と9年置きです。最後3年後に都を創り上げます。

関が原の戦い

信長上洛1573年⇒
本能寺の変1582年⇒
朝鮮出兵宣誓1591年⇒
関が原の戦い1600年⇒
徳川幕府擁立1603年

こちらも9年置きです。最後3年後に幕府を擁立します。

Ⅱ.発端の原因も殆ど同じ

壬申の乱。

大化の改新による政変から、孝徳天皇崩御。
その後、白村江の戦いという朝鮮半島で多くの人を失い、多くの者に反発を招く。
関が原の地で、最終的には、東軍対西の小国家群との戦いとなった。
近江京は東西の軍に挟み討ちに合い滅びる。
その後3年すると東軍の長、天武天皇により藤原京が樹立される。

関が原の戦いも、それは殆ど同じでした。

信長上洛後、本能寺の変で秀吉に政権が代わる。
秀吉が全国統一後、2度の朝鮮半島出兵で多くの人を失い、1598年秀吉の死により、朝鮮半島から撤収も、中央は多くの者から反発を買う。
最終的には関が原の地で東軍西軍によって戦った。
実は、中央官僚軍は東と西に挟み討ちに合い、事実上崩壊。
その後3年すると東軍の長、徳川家康により徳川幕府が樹立される。

2.壬申の乱との一番の違い

一番の違い。
壬申の乱の時は、東軍と西軍は実質対立していました。
ですが、関が原の戦いは東軍と西軍は最初から組んでおり、最終的には西軍の石田三成軍だけが標的にされたという点です。

西軍の大将、毛利輝元ですら、最終的に東軍と組んでいた状態だったのです。ですから、僅か数日で終わり、西16万、東9万と言われた兵(諸説様々あり)も殆ど人が死なずに終わったのです。

実態としては、西軍15万、東軍9万合計24万対中央軍1万程。の戦いなのです。
(実際にはそこまで出兵してもいませんが)

そう、これが織田信長公を始めとした愛の書き換え計画なのでした。
だから戦国末期は多くの人にとってロマンがあるのです。

心のどこかで記憶しているのですね。

壬申の乱は日本最大の内乱。それは負の感情連鎖が原因でしたが、関が原の戦いは、愛の和合によって大規模な争いを終結させたのです。

ですから、壬申の乱後は政権は続かず短期間で遷都を繰返し、江戸時代は260年もその後続く事となるのです。

3.この時、織田信長はどこに?

本能寺の変で亡くなった事が通説ですが、実はまだ生きていました。
ですが、この関が原の戦いの時にはいません。
時空間テレポートにより、別の時空間にいたのです。

また明智光秀も本能寺の変の後、山崎の戦いで亡くなった事になっていますが、生きていました。
明智光秀はその後、死んだ事にして生きていたのです。

やがて1599年、明智光秀は、天海上人として、徳川家康の傍に現れます。

天海上人は、主に、信長公と、諸大名等との通信役なのですね。

ちなみに織田信長公は7次元能力はありません。
超大掛かりな6次元能力だったのです。

むしろ7次元は明智光秀ですね。時空間テレポートをしたわけではないのですが。

この時、徳川家康は、信長公の意見を含め天海上人と相談し、様々な事を取り決めていました。

また、西の諸大名を取り仕切っている役は島津義弘でした。
天海上人はテレパシーを使い、彼とも連絡を取り合ってとりまとめていきます。

4.関が原の戦い、本当の経緯

Ⅰ.2度の朝鮮出兵で、西日本諸国の中央に対する反発

豊臣秀吉は関が原の戦い直前に、朝鮮に2度の出兵を行っています。
当時、明朝が衰退していた事もありましたし、朝鮮半島にあった国家、李氏朝鮮も衰退気味です。
豊臣秀吉は、当初は勝てると見ていたようです。

ですが、この2度の戦いでも、多くの者が亡くなっています。

実は1回目の戦い(文禄の役1592年~93年)は、序盤はそれなりに上手く進んでいます。
僅か1ヶ月で李氏朝鮮の首都は陥落しています。
ですが、その後は難航。結局は兵糧切れとなり、戦いよりも、飢えや病で多くの者は命を落としています。
ルイスフロイスによりますと、5万亡くなったとも言われていますが、そこまででなくともかなりの者が亡くなっています。そして1回目の戦いの停戦を1年程経過した時にします。

ここで豊臣秀吉は諸大名より大きな反感を買います。
特に西の諸大名ですね。白村江と同じく、主に西日本の者が中心に犠牲になった為です。

その後、1596年には、9月1日~5日にかけ、豊後、伊予、京都と三箇所でマグニチュード7.0レベルの大地震が起こります。2回目の戦いを計画していたからでしょう。これは明らかに予兆的なものですね。

そして2回目(慶長の役1597年~98年)では、前回よりも状況は悪化。
ここでも多くの者が命を落とします。この時も数万人規模ですね。
この時も西日本諸国を中心に負担が大きなものとなります。

ですが、1598年8月に豊臣秀吉は亡くなります。
本当は1599年にはさらに大規模な軍事を計画していたようですが、実現は無くなります。

以降、五大老(徳川家康含む)により1598年12月に全軍撤収、正式な朝鮮との和平交渉は1605年と徳川幕府擁立後になります。

ちなみに2度目の時も日本は数万人の犠牲者を出しましたが、明、李氏朝鮮もそれぞれ数万人の犠牲者を出しています。この時代で言えば、東洋最大の争いだったのです。約7年で総勢20万人以上の命が絶たれています。

2度の朝鮮半島での争い。
それは、あらゆる所で反発を買い、負の感情連鎖を招いた戦いだったのです。

Ⅱ.中央官僚に対する反発

壬申の乱の時と違う点。
東の長と呼べる徳川家康は、殆ど負担なく、既に力を蓄えていた事。

また、西の諸大名だけでなく、東の諸大名も中央は反発していた事です。

実質的な朝鮮からの撤収から関が原までの間。
僅か1年半程の事ですが、この間にそれまで中央に従っていた者が一斉に徳川家康寄りになるのです。

5.不思議な点

しかし、僅か1年半という期間で、関が原の戦いの後、
いや正確には前からですが、徳川家康に信任が何故集まったのか。

豊臣秀吉亡き後、各大名は何故反発しなかったのか。
各大名は、新たに独立する動きを見せなかったのか。

普通は、関が原までの10年を見ると、特に西日本諸大名は、東にも従わず、徹底的に戦う。
そんな可能性もありそうな所です。

しかし、実際の所、関が原の戦いは数日で終わった。
しかも、最初から計画的に終わらせるような、そんな話が多いです。

そう、実は秀吉が日本統一の前から、秀吉の裏側で動いていた人物と、皆協力してきたのですね。

それが織田信長、明智光秀だったのです。
その周囲に居た重要人物が、東側では徳川家康、西側では島津義弘だったのですね。

6.本能寺の変から、西日本諸大名間で結束力が向上していた

西日本諸大名と中央の結束力は、実は本能寺の変以降からずっとあったのですね。

この時からの信頼感があったからこそ、関が原の戦いは極めて短期間で終わったのです。

その後、戦国時代の資料は書き換えられたものは結構多いです。
それは愛の書き換えだったのです。

壬申の乱との違い。
この点も含め、過去に遡ってみます。

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