前世歴史探訪 その20.西の雄 三好長慶~1564年

前世歴史探訪

今回は西の雄 三好長慶です。

足利義輝、細川幽斎、明智光秀、若い頃の話を語る時に外せない大名がこの三好長慶です。

実は、1559年段階では東は北条家、西は三好家と呼ばれる位勢力が強かったのです。
(堺を押さえていた事もあって、当時日本で最大勢力とも言われているようです)

細川幽斎が足利義輝に仕えていた時、三好長慶とは敵対し、一度は1553年三好家によって足利家が近江京に追い込まれる所まで行きますが、何故か当初より足利家を庇護にしていたようでしたし、その5年後、京都に戻ってこれたのも、どうも三好長慶のお陰のようなのです。

ですが、1561年、実弟の十河一存が亡くなった後、不思議な位に急に失墜する事となります。

1558年~1565年辺りまで、本当に勢力が変わった時代なのですが、信長上洛までは、彼が西を支えていた存在だったのです。

1.三好長慶 生い立ち

Ⅰ.幼年期

阿波国(徳島県)に生まれます。

父は細川晴元(京都)の家臣であり重臣で細川家の発展に寄与していましたが、10歳の時に一向一揆衆と一族の共謀により亡くなります。

実は、その後一向一揆衆との和睦を僅か11歳にて果たしています。
そして11歳で元服する事になります。
信じられないような話ですが、これは実話なのです。

ちなみに、この時以降11歳元服というのが目立つようになりますが、実際には12~14歳で11歳元服という事が横行します。
つまり一種の見得ですね。

例えば、足利義輝は11歳で元服したとなっていますが、実齢では14歳で元服。
このように多くの者に影響を与えた存在だったようです。

その11歳の時に、摂津で父の命を奪った一揆衆と戦い摂津の城を奪回。
翌年には、本願寺軍と共謀し、細川晴元軍と戦っていますが、若年の為、本願寺家が仲裁という形で、細川家の家臣という事になっていますが、実態としては本願寺家との仲が深いようでした。

京都にいた細川晴元の家臣でありながらも、同じ家臣でもある父の命を奪った一族との争いは絶えず、18歳の時には、摂津に独自勢力を確立していきます。

Ⅱ.京都に進出後、足利家と和睦

1548年、26歳の時、細川晴元と戦う事になります。

この時に細川晴元は足利父子を京都から連れて近江京へ逃亡します。

1553年には、正式に足利家を京都から追放する形となりますが、実際の所は、足利家の京都に対する影響力はかなり大きく、
1558年には、足利家とは和睦を図るようになります。

足利家にとっても、三好家を後ろ盾にする方が軍事的には好都合でしたし、三好家にとっても、足利家を実質支配下に置く事で、各国大名にも影響力を与える事ができたので、好都合だったのです。

1558年、表向き白河の戦いとしていますが、実際の所は形だけで、話は事前にできあがっていたようなのです。

この後、1558年~9年にかけて、足利家は各国大名に上洛要請等図り、財力を立て直す動きを行います。
一方、三好家も、この頃畿内を掌握しているような状態で勢力的にはピークを迎えています。

1550年以降辺りから、京都では、足利家と和睦を図る動きを活発化させていき、地元では反感はありましたが、大阪の民衆からは慕われているようでもありました。

1561年には足利義輝を自国の城に招き入れ足利家との結び付きを強固にします。

Ⅲ.三好長慶の失墜

ですが、どうも三好長慶は、細川家との確執が、その後もずっと続いていたようなのです。

1561年、三好長慶が一番信任を置いていた、実弟、十河一存が亡くなるのですね。
その後、1563年子義興が亡くなります。
さらには、一族内の確執が続き、三好長慶は1564年に亡くなる事となります。

享年43歳。

その後1565年足利義輝が謀略により亡くなる時もこの流れと関係しているようです。

2.滅ぶ理由は、細川家との確執、その後は一族内の争い

詳細はここでは書きませんが、そもそも発端は、父の命を奪った細川家との争い、その後は一族間の争いとなります。
実は、細川家を交えた一族内での負の感情の連鎖が原因なのです。

足利家との和合のところまでは良いですし、民衆からは慕われていたようなのですが、やはり負の想念の連鎖には勝てなかったのでした。

また1561年十河存保の死に関しては、細川幽斎が受けた謀反とも関係しているようですし、三好長慶の死は、どうも足利義輝の死にも関係しているようなのですね。

しかもですが、この数年後には三好家全てが滅亡しているのです。

これが負の感情の連鎖の恐ろしいところです。

その型は足利家にも同じようにして被さったのです。

ですが、これに取って代わるのが織田家の上洛。
そして足利義昭の擁立なのです。

これも流れとしては重要なようなのです。

3.まとめ

戦国時代の世で、三好長慶は民衆からも慕われ、足利家とも最終的には上手くやれていました。

流れとしては、確かにこのまま足利義輝を将軍として、畿内を制圧。
そのまま全国に支配拡大してもおかしくありませんでした。

ですが、1561年弟の十河一存の死から始まり、一気に失墜の道を辿ったのです。
これは、細川家との確執、それに伴う一族の争いが原因です。

つまり想念の部分では、負の想念の影響は大きく、それが一族の滅亡にまで発展したのです。

如何に民衆への行いが良くても、最も身近な存在、特に一族内で負の想念を抱えていては続かないのです。

ですから、1565年頃の京都、畿内は大混乱だったのです。

そして、その後京都の混乱をとりまとめていくのが、織田信長、そして陰ながら足利義昭となるのですね。

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