前世療法体験談 vol.10 戦国時代京都 読み解きを求めてきた前世

前世療法体験談-ゆう斎が受けた前世療法

戦国時代の前世です。

若い頃に、家臣の裏切りに会う、騙し討ちに会うというものです。

前世ヒーリングの時間は約10分と、すぐに終わったのですが、彼の若い頃を知る事は非常に重要な事でした。

実はカルマ解消を願っていたというよりは、若い頃の私を解いてください。という事のようです。

内容は裏切りに対しての浄化でしたが、それが彼の求めていたものではないのでした。

彼が求めていたのは、その裏切りの原因の本質ですね。

このようなパターンもこの時が初めてでした。彼は、読み解きを求めてきたのです。彼にちょっと試されているような感じだったのですね。

1.痛む位置

右肩前側です。

たまに痛む事があった場所でした。
時々ズキズキしていたのです。

2.状況

占い師さんが最初に伝えられたシーンは、いきなり裏切りに遭ったところからスタートします。

家臣同士でしたが、かなり前から狙われていたようなのです。

会席の場でしたが、その時に狙い討ちにあったようです。
この時、短剣で右肩前辺りを刺さされる事になります。
実際にズキズキ痛む場所に受けたようでした。

彼はどうしても許せないとの事でした。
その時、年齢は20代後半。西暦1561年頃のようです。

3.実際の会話

彼はいきなりこう言いました。

「やり方が卑劣。その裏切りの相手が、絶対許せない」

私はこう返しました。
「戦いの場、戦乱の場時代だから仕方ない。状況は誰もが同じ」
「その時のその時の価値観ってどうしてもある。それによって左右されるのも仕方ない部分がある」
それよりも、あなたも同じ事をしている。した事はされる。

彼はこう言いました。
「絶対していない」

私はこう続けます。
「その感覚は判る。ただ、記憶の蘇らないくらい昔ならしている。動物まで遡ったらしていますよ。

この時、ふっと痛みが取れました。

この前世療法はかなり短時間でした。約10分位でしたが。

ちょっとあっけなかったですね。
しかし、それより重要な事は「私」という存在自体を読み解いて欲しかったようです。

4.後から判った事

前世療法後に判ったその一部です。

彼は、特に若い頃について知って欲しかったようです。

Ⅰ.幼少から元服(12歳)まで

皇室系の側室家系で京都に1534年に生まれる。
7人兄弟の中、私自身は五男で、男の中では末っ子でした。

この当時は長男が家督を継ぐという絶対的価値観がありました。
当時、二男、三男はその保険。
当時、四男、五男って、もうどうでもよいような扱いです。

当時、皇室系の男子は、足利家の家臣になる事が出世コースでした。

上の兄弟。どうも三男までは両親のそばで育ちその後、足利家に仕えたようですが。

四男、五男は小さい頃より寺に預けられていました。
実の親とは、一緒にいる時間は殆ど無かったようです。
どうも、四男、五男が存在している事自体が、親から見ても、何か邪魔者扱いのようでしたね。

もう3人男がいましたから、本当は差し出す為の娘が欲しかったのでしょう。
皇室系は立場上どうしても守りから入ります。より強い大名に差し出せる娘が欲しかったのでしょうね。

四男・五男は、イベントの時だけ2回程参列した他は、殆ど寺に居たようなのです。
しかもその2回とは、誕生した時、七五三の時でしたので、殆ど記憶にありません。
ですから、実質的には寺の子なのです。母親ではなく、乳母育ちのようですし、その他は寺の関係者さんによって育てられます。場所は現在の大徳寺近辺のようです。

寺では比較的大切に育てられました。(恐らく立場や経済的支援等あったからだと思いますが)

寺の方からは、両親、兄弟の説明については
「立派な方なのですよ。」
というだけ。

詳しい説明はありません。聞いても答えてくれません。
そもそも皇室系なのかどうかすら知らないようです。
兄弟が居るという事も知りません。
出生が本当によく判らないまま、ずっと育ってきているのです。

ですが、しっかり教育はして貰っていますし、かなり優遇もされていた感じです。当人はその理由が全く判っていませんでしたが、寺の生活は結構楽しんでいるようですね。
四男は2歳上でしたが、同じ寺で一緒に大切に育ててもらっているようです。

そして、12歳元服の時に足利家の家臣として就きます。

Ⅱ.足利義輝の家臣となる

実は、全ての兄弟。長男~四男までは、もう足利家の家臣として仕えていたようです。
四男、五男の事は両親、長男~三男側からは全て判っていたようです。

一方、四男、五男側から見ると、両親だけでなく長男~三男の事は存在すら知りません。
苗字も違っていたようですし、存在していた事にずっと気付いていなかったのです。
(ちなみに四男と私は苗字が一緒ですね。これはどうも母方の方の姓のようです。)

そして、実際には四男・五男が、どうも当時の足利家当主、足利義輝からの覚えは良かったようです。

四男・五男は順調に出世します。
特に四男は戦いでも指揮を執る立場、作戦役として、出世は早かったようです。

また、足利義輝とは年子関係。
四男・足利義輝・五男と1歳差と比較的近い年齢という事もあって、普段からもよくしゃべっている間柄のようでした。この点も案外出世の理由なのかもしれません。

将軍家も、皇室絡みの家系も、本音が言える相手って限られているからという所が大きいのでしょう。立場的にも、四男や五男のような私達の存在の方が何かと言い易かったのかもしれません。
このようにして関係性が強まります。なんだか不思議な縁です。

Ⅲ.足利家、滅亡の窮地に追い込まれる

しかし、既に応仁の乱以降、足利家はかなり衰退していました。
やがて、足利家はいよいよ戦乱に巻き込まれていきます。
1550年頃からですね。義輝17歳の頃です。

当初、三好家に攻めこまれますが、どうも首謀者は六角家のようです。背後には六角家の支援がある時もありましたが、これはどうも内部情報を掴むためのようでした。六角家からしますと、三好家を利用して上洛したかったようです。三好家も逆で、上洛する上で六角家の存在が都合が良かったという事もありました。

このように京都近郊で、当時一番強かったのが六角家のようでした。この当時の京都はまだ全然政情不安で荒れており、実は天皇家も足利家から六角家に重きを置くか揺れていた感じです。

1553年には足利義輝は三好家との戦いに敗れ京を追われました。その後、滋賀県近江に本拠を5年程置き耐えることとなります。丁度三好家と六角家に挟まれるような形になります。この時が足利家最初の窮地の時でした。

Ⅳ.軍師の四男は去り、五男の私がその後に就く

このような状況でしたので、この頃より家臣の分裂が始まります。

辞めだして三好家や六角家に付く者。

足利家内で残っていても三好家や六角家に内通する者。

実は、四男はかなり先読みしていて、本人は足利家を一旦出た方がベストと見ていたようです。

四男は1つ弁舌というのが彼の得意技でしたが、工作作戦や戦いで主に軍事で、軍師としてその能力を発揮していたのです。よって、自分の能力を発揮するのには、足利家の現状では余りにも力が弱く、一旦出た方が良いと思ったのでしょう。また、この時の首謀者は六角家だったので、六角家を挟み内にする為、どうも斉藤家(岐阜県)に仕えたようなのです。この戦略そのものがまず重要なようでした。

また、この時四男の活躍を妬んで、長男~三男は六角家と組んで四男を殺害しようと企てていたようです。
しかし、仕えていたのは足利家。確かに内通作戦はこの時代では非常に有力な手法だったのです。
この事も四男は判っていたようで、出る理由の1つでもあったようです。

私は、そのまま残る事にしました。四男の役を私が引き継いだようです。
そしてこの時より名前は藤孝になるようです。藤は足利義輝の幼名が義藤で、そこから藤を取ったのでした。

私はこの頃には、戦いよりは内政に力を入れ始めます。
当時足利家の強みと言えば将軍という職の存在があった事。天皇家とまだ繋がりが残っていた事。
位だったのです。とても戦えるような状況ではありませんでしたから。

この為、●●探題や●●守護と任命し、強力大名を自軍に引き込むとか、戦いの和議をすると同時に手助けを求めたり、物資を差し出させたりして、こうして武力や財政を保つ方が先決だと思ったのです。

この点に関して言えば、私の方が適職。四男から見ると五男の私で十分だとも思ったようです。

四男は美濃の斉藤家へ。五男の私は足利家の軍師役に。
1556年。四男24歳、私22歳の時でした。

V.足利家一旦盛り返すも、家臣から裏切りに会う

その後、1558年、足利家は三好家との戦いが始まりましたが、この時は六角家を斉藤家から圧力をかけてもらい、なんとか六角家を味方に付けます。また、地方の大名の協力要請等で、なんとか三好家とは戦わずにすむようになります。そして5年ぶりに上洛を果します。

このように自国は戦わず、周囲の大名達にバックアップしてもらってなんとか立ち直ります。
とちょっとこの頃より、足利家が立ち治る兆候がでてきます。

ここで面白くなかったのでしょう。私が家臣からクーデターに遭います。
それが、実の兄三兄弟ですね。1561年の事です。

ただし、この当時では、もう六角家も浅井家にやられていたりしていましたので、単独に近い動きだったようですが。しかし、これを機会に実の兄三兄弟は足利家を出たようです。

実は、短剣で私の命を狙ったのは、どうも実の兄弟、長男だったようです。
当時の私は、実の兄だと気付いていませんでしたが、その本質は兄弟争いだったのです。

また、自身が皇室系の子だった。あの時の三兄弟が実の兄弟だった。と知ったのは、どうも信長上洛後のようです。
天皇家筋から判ったのでしょう。

そして、この五男が、細川藤孝。後の細川幽斎です。

そして、四男はあの明智光秀です。

まとめ

自分を謀反で切りつけてきた者。
それが実の兄弟だった。

彼はどうも、この事を解いてほしかったようです。
実は、斬りつけてきた相手。その時は単なる年上の者くらいにしか思っていなかったのですが、まさか実の兄弟とは思っていませんでした。

この事をもっと早くに知りたかった。
これが彼の本音なのでしょう。

私の前世で、まあ今世でもそうですが、兄弟の裏切り。は本当にテーマなんですね。

それが、側室系家系(愛人系家系)からという事もあったのです。
愛人家系はどうしても戦いの元になりやすいのですね。
愛の喪失が始まりやすいからです。

実際、側室系家系って家系が絶えて行くことが殆どなのです。
それは現代を見てみると判りますね。実際、側室系家系だらけではありませんし。

そして生き残っても四男や五男といった末っ子筋が多い。
これは家系の法則でもよくあるパターンなのです。

このように、実際不遇な目に遭う事が多いのが、四男や五男筋。
しかい、下の男の子が生き残るようになる。

一方、長男筋や次男筋が下の兄弟を利用し、そのような結果、家系が耐えてしまう。

このような事は昔は本当に多かったのです。
徳川家の家系図なんか典型的ですけどね。

行き着く所、

愛人間で子を作らないという事。(争いの始まりの元)

子供を保険の対象にしないという事。(子供の心を傷つけ、兄弟間の妬みの元になること)

子供を利用の対象にしないという事。(子供の心を傷つけてしまう)

という事になってきます。

現代では、このような価値観がかなり減りましたが、それでもこのような事は昔は普通で、その歴史が非常に長いのです。これは、愛の喪失によくあるパターン、型なのです。

このような愛の喪失が、魂に刻まれていて苦しんでいる人は、現代でもまだまだたくさんあると思っております。

一見赤の他人でも、その型が全く同じだったり、ひょっとして同じ魂だったりするかもしれないのです。

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