前世療法体験談 vol.30 キリシタンの女性の前世 江戸時代長崎

前世療法体験談-ゆう斎が受けた前世療法

今回はキリシタンの女性の前世です。

実は、ヒーリングを受けた日の朝ですが、足が吊った状態になったのです。

しかも左足。
場所も何故かふくらはぎ。

左半身がまず痛む事が昨年まで殆どありませんでしたし、しかも吊るという事も殆ど経験がありません。

痛みはある程度引いたものの、かなり気になりそのままヒーリングを受けに行きました。

やはり痛みの通り、重い前世でした。

今回は重い内容ですが、多くの人にとってかなり重要なテーマとも思いますので、ご了承ください。

1.痛む場所

左足、ふくらはぎの裏側。

転生回数143回目。

過した場所は長崎。

1632~1659年。享年27歳。

受けた日4月9日。

何故左足が痛くなったのかは、今回は割愛いたします。
(きっかけではありますが、話の趣旨としては重要ではないので)

2.状況

生まれは福岡の方 ですが、長崎の方で嫁いだようです。
親は漁師でしたが、どうも長崎の方が、漁としては魅力でそちらに移動したようです。

嫁いだ先は小さな集落。
20名程しかいなかった村です。

ですが、村人全員が隠れキリシタン。

当時、キリシタンであれば、処刑されるという事はもう誰もが判っている事だったのですが。

そんなある日、踏み絵を村人にさせるのですが、結局、全員踏む事ができず、村人達は全員処刑されたのでした。

3.実際の会話

現代であれば、キリスト教信仰自体何も問題もありませんが、当時では、生死をかけた信仰でもあったのです。

その中でも、キリスト教信仰者にとって、踏み絵はどうしてもできない行為のようでした。

また、主イエスの教えを信じれば、いかなる目にあってもそのまま天国に連れていってもらえる。
そのような信仰を持っていたようでした。

だから最後まで踏む事をできなかったのです。

まず、命を奪われるのが判っているのに、踏み絵ってそこまでできないものなのか?
その事について聞いて見ました。(勿論望ましい行為で無い事は判っていますが)

彼女曰く、主イエス様を踏む事は、生みの父にそむく事だからできないと言っていました。

また、村人全員が、主イエスを踏まない為、自分だけそのような事ができない。
仮に生き残っても、村人達を裏切る事になるので、それはできないとも言っていました。

周囲の全員がそうだからできない、という部分もあったのです。

提案はあれこれしてみたのですが、結局は、

主イエスの教えの思いを貫き通し処刑される道を取るか。

思いを貫き通さず生き残るか。

2択しか無いのです。

彼女の中では、当時の状況からしますと、後者はどうしても、無い、という答えだったのです。

ですが、ここは中間的な回答が一番良いと思ったのですね。

「表向き仏教を信仰しているふりをして、実際にはキリスト教を信仰するのはどうですか?」
「例えば、仏壇を置いておくとか、それだけで去ってくれる可能性は高いですし」
「もっとできるなら、両方信仰するとか(かなり無茶とはわかっていますが)」

と伝えたのです。

彼女初め、村人全員が命を落としていましたから、この案は通らないようにも思ったのですが、しかし、彼女は、やはり村人全員が命を落とす事を考えると、かなり前向きに受け入れてくれたのです。

そもそも、誰もこのような発想する事自体が無かったようです。

この、表向き仏教を信仰しているふり。
この事自体、虚偽ですし、ある意味仏教に対して失礼な所もあると思うのですが、それでも、村人が死ななくて済む、また取り締まる方も処刑しなくて済む事を考えますと、この案は彼女にとって希望に感じたようでした。

主イエスの教えを貫き通せば、あの世に行った後、救われると彼女は教わったようなのですが、ですが、彼女を見ている限り、生前の辛い思いは無くなっていませんでした。(ちょっと記載するには酷すぎる結果でしたので、詳細は割愛します)だからあれだけの激痛を伴って現れたのですね。

天国どころか、悲痛な思いを抱えたままだったのです。

4.後から判った事

Ⅰ.ヒーリングの先生が実は、義理の弟

まだ、お伝えできていませんが、ヒーリングの先生はご主人の弟さんなのでした。
ヒーリングの先生はキリスト教に関係した前世が多いですが(そういう私も結構多いですが)、この時御一緒だったようです。

Ⅱ.キリスト教に関する最初の転生

どうも私のライフレコード全体でも、キリスト教に関係するのが初めての転生のようです。
宗教という概念が初めてのようですね。

当初、恐らく、300回台辺り~だろうと思っていましたが、案外早くからキリスト教を学んでいたようです。

また、信仰に対してもかなり純粋に向き合っていますね。
まずは、教えを素直に習得している感じです。

Ⅲ.自己犠牲のカルマはどこから来ているのか

宗教絡みでよくあるのが、このような自己犠牲です。

自己犠牲の反対は、他者犠牲ですが、実は、この他社犠牲の前世がある為、自己犠牲を伴う事が多いのです。

しかし、人類全体を見てみますと、他社犠牲のシーンも無くはありませんが、自己犠牲の方が圧倒的に目立ちます。

ここからも判るかと思いますが、他社を犠牲にして生きてきたその多くは、

動物時代にあるんですね。

実際それは、動物を観察してみるとよく判るでしょう。

しかし、だからと言って、人に生まれてきて必ずしも自己犠牲を伴わなくてはならないのか?
カルマ的には宿命的部分でもありますが、大難を小難に替える事は可能だと思っています。

Ⅳ.処刑した人は現世に生まれ変わっている

実は、ここで処刑した人達は、現世でも生まれ変わってきているようです。

一番大きな要因は、一応は社会の為、と思ってしている点があるようです。
個人的なエゴとは違う所にあるようです。

このようなケースは現代で生まれ変わることができているようです

ですが、これは1つ宗教戦争の型にもなっていると言えそうです。

つまり、正義対正義の世界観です。

Ⅴ.生まれ変われば天国に行けるのは本当?

死んだ状態が地獄で、生まれ変わったら天国に行ける。

彼女に限って言えば、そのような事は無いようでした。

むしろ、私の前世。
彼女にとっての未来世ですが、宗教戦争に関する地獄的な思いはその後ずっと続く事になるのです。

とある御神事では、死んだ後とは、死んだ状態で次に行くとありますが、これは妖怪になった女性の前世もそうでしたし、私のライフレコード自体でもそうです。例外がありません。

私の場合、宗教で苦しむ前世はかなり多いですし、ここまで、アドバイス、予防、回避策、最善策、ある種の納得までは持っていけても、やっぱり根本的に宗教戦争。この部分では全員苦しみ続けているのです。

Ⅵ.彼女に起こったカルマ解消とカルマ発生

そうは言っても、彼女は被害者です。

信仰そのものが悪い訳ではありませんし、キリスト教の内容自体はむしろ良い事の方が多いはずです。

この上で、処刑されたのですから、実際の所、彼女の中では強力なカルマ解消が働いているのは事実です。
動物時代を中心とした、かなり多くの他者犠牲の前世のカルマが強力に解消されているでしょう。

ただ、1つ問題なのが、それが処刑した人達の手によって。という事です。

不慮の事故のケースとは違い、彼らがキリシタンを処刑することは事前に判っていたはずですので、ある意味彼らの世界を容認している部分もあるのです。

つまり、自分達のカルマ解消のために、新たにカルマを背負う人が出る事に対する容認なのです。

だからこの後も、ずっと宗教で生死をかけた所で強固な関係性が続いてしまうのですね。
因果からはそうなるのです。
今回では、処刑される者と処刑する者との関係です。
どちらが欠けても成立しませんから。

だから、最善策は、

誰も処刑されなくて済む。
また誰も処刑しなくて済む。

この世界観を作るという事が重要なのでは?とも思うのです。

ちなみに武士の世界観では、戦わずに終わらす事が、常々最善策ですよね。
(実際、先に動いた者程殆ど負け、そして滅亡する事が圧倒的多数)

Ⅶ.彼女の寿命は変える事ができる

ここまで、どうにも運命を変える事ができない人生がありましたが、今回のケースは、村人の思いや知恵があれば、事前回避する事は可能と見ています。

彼女に関しては死後、ある一定の浄化は見られましたが、今回のケースは選択や工夫次第で、そもそも回避できる話ですので、宿命性は強いですが、このような悲劇を変える事は可能と見ています。

5.まとめ

今回のテーマは、

処刑をする、される人を出してまででも、信仰を通す事が良い事なのか。(ある意味善)

嘘をついたり、もしくは踏絵をしてまででも、人の死を出さない方が良い事なのか。(ある意味悪)

この2択でどちらを取る?という事なのです。

しかし、多くの人は、前者の状況を経験する前世があるようなのです。
実際、私自身、ここまで書いてきた前世療法体験談の中でも、彼女を含めかなり多く経験していますし。
もしくは選択をせざるを得なかったですとか。(実は誰しも大半のケースがコレ)

前世カルマの問題(主に動物時代)や、強力なカルマ解消の事もあり、様々な意味で、どうしても飛ばす事ができないステップのようです。

ただ、私の場合、宗教で命を落とした前世は、その後天国どころか、ほぼ全員重く苦しんでいるのですね。

何故戦わないといけない?
何故死を与えないといけない?
何故死を受け入れないといけない?
その結果、多くの人が犠牲になった・・・。

と、本質的部分では救われていないのです。

ですから、やっぱり行き着く所は後者なのだと思うのですね。

実際、全ライフレコードを見ていても、信仰を貫く、信仰うんぬんよりも、命を奪う事が、一番重いカルマだと体感しているからです。

そういう意味では、愛の嘘って、かなり重要だとも思うのです。
特に命を奪うカルマを無くせる、という事ならなおそう思うのですが。

そもそも、カルマって無くす事はできないにしても、大難を小難にする事は可能のようなのですね。
今回では、愛の嘘がそれにあたるのです。

だから、私はこの2択であれば、後者になってくるのですが。

あなたはどう思われますか?

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