続いて行きましたのが大神神社(おおみわじんじゃ)です。
箸墓古墳を見た後、すぐの所です。10分足らずで到着。
到着がお昼の1:30頃でした。
巨大な鳥居があります。駐車場はこの中にありました。
【大神神社 大鳥居】
この神社は歴史が非常に古いです。
大和国一宮神社ですので、大和第一の神社です。
「古事記」「日本書記」には、創始についての記載があります。
第十代崇神天皇の時には国作りの神として崇められています。
少なくとも紀元後250年頃までには存在していた事は間違いなく、恐らくながら紀元前後からずっと存続していると見ています。
大神神社は三輪山を神体山としています。
上から順に奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座があります。
ちょっと残念だったのは、この神社がかなり広いという事。
本当は神体山まで行く方がよいのですが、全部周りますと恐らくながら3時間くらい見た方がよいかも。
今回全部見て周るか、ちょっと迷いましたが。
・・・実はちょっと急に気になる場所が出てきまして。
そういう事で、今回は残念ながら全部見るという所まではいきませんでした。
しかし、判った事は山程あったのです。
崇神天皇についてですね。
1.大神神社 境内
さて、大神神社内に入っていきます。
最初の鳥居です。
【大神神社 境内までの道】
奥に入っていきますと境内が見えてきます。
【大神神社 拝殿】
本殿です。多くの人が参拝していました。
中には三ツ鳥居(みつとりい)があるそう。
三ツ鳥居(みつとりい)は京都の蚕の社を思い出します。別名、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)とも言いますが、何かと秦氏と関連していますからね。三ツ鳥居は飛鳥朝以降にできた可能性が高そう。
申し込みしますと、見る事が可能だそうです。
さて、ここから北側には、ご神体に入れる神社があります。
ちょっと歩きますが。
2.狭井神社 (さいじんじゃ)
拝殿から数分程歩きますと、北側奥に狭井神社があります。
【狭井神社入り口の鳥居】
ここから拝殿に入り、その右手側から申し込みしますとご神体の山に入る事ができるようです。
ここでは御神水も販売しています。
時間があれば、ここからご神体の山に入りたかったですが、今回は断念。
鳥居の向こうは全体的に気が大変良い所です。
全部を周った訳ではありませんが、今の所ここが一番気の良い所でした。
3.天皇社(てんのうしゃ)
限られた時間で全部回れませんでしたが、一番気になったのがこの天皇社です。
丁度拝殿の東側にあります。
【大神神社 天皇社】
丁度拝殿の東側にあります。
なんと言っても今回驚いた事が、御例祭の日が私の誕生日なのです。
6月13日。
実は、ここまでですが、私の誕生日に関しては、自分の前世を思い出すきっかけになる事が多いです。
このブログ内では初めて取り扱いますが、実はここまで何回もあるのです。
となると、この時代で私は存在した可能性があるという事です。
単に365分の1の偶然と言えばそれまでですが。
ですが、私の過去世は本当に6月13日に因縁があるのです。
崇神天皇は第10代天皇です。
欠史8代(2代~9代)の天皇までは殆ど謎に包まれています。
書に掲載され、実在した可能性があると言われている最初の天皇がこの第10代天皇崇神天皇です。
中には、初代天皇神武天皇と同一人物ではないか、という説がありますが、私の記憶では違うとしておきます。
神武天皇は神武天皇でいますし、崇神天皇は崇神天皇です。
ちなみに欠史8代天皇も全て実在していると見ております。
Ⅰ.「日本書紀」での崇神天皇、箸墓伝説
崇神天皇は「日本書紀」の天皇記の中に出てきます。
簡単にここでのお話をまとめてみます。
崇神天皇即位してすぐの事。疫病が蔓延しており、その原因を倭迹迹日百襲姫(ヤマトトヒモモソヒメ)に占わせた所、大物主神(オオモノヌシノカミ)が乗り移り、原因が祟りである事が判明。その後大物主神を祀れば疫病が治まるという事で、実際に祀れば疫病が治まった。
また、百襲姫は国内の謀反を見破り、事前に内乱を防いだ。
その後地方の遠征し、各地は平定され、その後富み栄え天下泰平が訪れたという。
《ここまでが崇神天皇に関する話です。》
その後、百襲姫は大物主神の妻となるが、いつも夜にしか会うことができない。
一度お姿を見たいので朝まで居てほしい。とお願いした。
翌朝百襲姫が見たのは蛇の姿をした大物主神だった。驚きの声をあげてしまい、蛇の姿をした大物主神は三輪山に帰ってしまった。後悔した百襲姫はその場で泣き崩れてしまい、その拍子に箸で陰処を突き絶命してしまった。
その後、箸墓に祀られ、それが箸墓古墳となるというお話です。
《箸墓伝説》
Ⅱ.私の記憶では
崇神天皇が即位した頃、日本各地で戦乱が頻繁に起こり大変だった。
丁度中国が三国時代で混乱していた時代だが、日本でもそれは同じだった。
まだ崇神天皇が若い頃(20歳頃)だが、側近の巫女に百襲姫(15歳頃)が居た。
崇神天皇は勿論皇室を受け継いでいるが、百襲姫も皇室を受け継いでいるようである。
百襲姫は各地の戦乱の状況を見抜くだけでなく、内部の謀反も見抜く程能力の高い巫女だった。
その結果、戦乱も小康状態に治め。なんとか大和の体制を支える事になる。
やがて百襲姫は崇神天皇に恋をする。
本当は妻として協力をしたい。
ところが・・・崇神天皇が実は女性である事を知ってしまう。
古代ではこういった事は珍しくなく、子供が女性しか授からなかったケースもあり、表向きは男性として国王を切り盛りしたのだった。女性の身でありながら、ずっと国を護ってきたのだ。勿論知っているのは本当の近親者のみ。
この時より百襲姫は生涯巫女として崇神天皇に仕える事を決心し、少し北にある箸墓に拠点を置き巫女として祭祀する事になる。それがあのお宮、百襲姫のお宮である。
ところが、決して全国は平和に向った訳でもなく、混乱は引き続き継続。
また、まずい事にある年に疫病が大流行、特に大和では疫病の被害が甚大になる。
大和はこれで国力を落とす事になるだけでなく、百襲姫も病で命を落とす事に。
急激に弱体化した大和国。
崇神天皇が三輪山で祭祀で必死に祈ると、なんと卑弥呼が現れる。
卑弥呼は亡き百襲姫のお宮を本拠とする。
やはりあの場所が一番力があるという事なのだ。
その後、卑弥呼によって、大和の国力が回復、そのまま一気に全国の平定が進む。
あまりの速さで平定した為、卑弥呼は一躍、多くの者に奉られる存在となる。
ところが、卑弥呼は神隠しに会う。
ある日忽然と消えたのだ。
以降、崇神天皇は大和で君臨するもその後すぐ258年頃に崩御。
次いで11代垂仁天皇が即位、その妻があの12代景行天皇の母にあたる。
その後、実態としては12代景行天皇の母が実権を握ることとなる。
とこのように、題材的には「日本書紀」にある事と被る事が多いですが、実際には順番が違うという感じですね。
Ⅲ.この話での共通する点
この時代大和では、全て実権者が女性中心で動いていたという事です。
崇神天皇は史実では男性のようですが、私の中ではどうにも女性として出てくるのです。
崇神天皇を支えた百襲姫も女性ですね。
また百襲姫が亡き後に出てきた卑弥呼。やはり女性。(ひょっとして半分女性、半分男性?かも)
最後も実権を握ったのは景行天皇の母なのです。
また、百襲姫と卑弥呼の役割が被るという事もあって同一説も根強いですが、私の中では違うとしておきます。
(霊体も別です)
4.まとめ
本当はもっとしっかりと全部周りたかった大神神社。
特にご神体の山に入りたかったです。しかし、これはまた次回の楽しみに取っておきます。
実際には1時間程しか居ませんでしたが、次回は3時間程かけてしっかり周りたいと思います。
それにしても、大神神社、箸墓古墳、崇神天皇、百襲姫、卑弥呼、景行天皇の母と繋がりが出てくるとは予想外でした。
ちなみに、この大神神社、景行天皇稜、この時行かなかった崇神天皇稜、ほぼ同一線上に存在しています。
後から気付きました。こういうのも面白いですね。
次は、安倍文殊院です。