前世の旅 奈良 熊野 ③ 行基の墓 本当の姿は僧というより実業家

行基のお墓(竹林寺)3 前世の旅 奈良 熊野 2019年7月28日-30日

宝山寺の次は行基のお墓参りに行ってきました。

宝山寺からは車で15分位のところ。
法隆寺までの通り道という事もありました。

京都-熊野の地図2

まあ、今回の旅では、行ってみたら過去世が判るという事で当初予定していたのですが、
この行基のお墓これは逆パターンですね。

何でか行基さん。
行く前から、過去世でご縁があると思っていたのです。

私の第一印象は坊さんというより、ナイスガイ。という感じでしたが。

1.行基の墓(竹林寺)

宝山寺より車で15分。
すぐの所でしたが、ちょっと車で行くには細く強い坂道を登り、最初躊躇しましたが、そのまま進みますと左手に小高い丘に車を止めれるスペースがありました。

さらに奥に行きますと手前に竹林寺、行基さんのお墓はさらに奥のところにあります。

【史跡 行基の墓】

到着後、手を合わせました。

ここでは思い出す事は特になかったのですが、実は戻ってからウィキペディアを調べると次ぎから次ぎへと思い出す事が連続したのです。

2.行基さんの思い出

ウィキペディアを読んでみますと、違うなー。と思える所がたくさんありました。

さて、行基さん、私の記憶では貴族出身です。
それこそ良い所のお坊ちゃまですね。
百済からの渡来人という記載がありますが、うーん何か違うようですね。
土着日本人だと思います。生粋の貴族出身です。

実態として、生まれた頃、家族は地主農家の色が強かったようです。

当時、飛鳥朝末期~奈良王朝開始までは王朝は壬申の乱を起こしたり、遷都の連続で国家も国民も全て困窮。
この流れで、田畑は戦乱で荒れ果て、結果農家の多くは地主や寺に頼る事が多かったのです。この為、自然と地主や寺は小作農を抱える関係となり、荘園化していきました。
実際には律令による納税制度はうまくいってなかったのです。

行基のご両親の家も同様に栄えていった地主の内の一人なのです。

さて、行基は坊さんというよりは行商人という感じでしたね。
ご両親の後を継ぎ、地主ベースでしたが、それを元に他の食物の売買をしていたようです。
僧侶というよりはメインは食物の流通に絡む実業家のようです。

それを元にどんどんと勢力を拡大していったのです。
中には運営がうまくいかない寺をそのまま助けたり、食べられない坊さんが小作農になったりする事もあったようです。
このようにして、寺社も含めて拡大していったようです。

お布施や慈善活動もしっかりされていました。
とにかく当時食べられない人が本当に多く、その人達をどう救うか。
そればかりを念頭において生きていました。

小作農思いの領主でしたので、小作農もモチベーションがアップ。双方が潤う関係性でした。
このような流れでどんどんと勢力を拡大していったのです。

そんなある日、717年にはこのような事が起こりました。

「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」(ウィキペディアより引用)

これですが、どうも影響力が大きくなりすぎた行基を国が取り締まったのですね。

しかも僧尼令に違反するとして、国からの弾圧です。
奈良王朝では唯一、行基だけがこの僧尼令違反罪を受けたようです。
勢力を拡大すると、どうしても僧を養ったり、寺社を吸収する流れになるのは避けられないのです。
ですから、この取り締まりは実質言いがかりのようなものなのですね。

実は行基という名前はこれをきっかけに改名したのです。
何も僧侶として有名なりたい訳ではないし、多くの人を救いたいだけ。

「全ての基は行いである。」

全ては行動あるのみ。
だから行基さんなのです。

この後国家が作った法令として、三世一身の法(723年)がありました。
開墾した場合3代まで開墾田の所有を認めるというもので、その後は国のもの。
まだ奈良王朝の財源は不安定。
どうも、行基を筆頭に多くの地主や貴族、寺社を意識した法律だったのです。

しかし、この法律も実際には形骸化。
多くの人にとっては費用対対価が合わないのです。寺社や貴族、地主を頼った方がよっぽど食べていけるのです。
その為ますます、寺社や貴族、地主が潤う流れになってしまいます。

墾田永年私財法(743年)は開墾した土地は自身のものにしてよいという法律ですが、もうすでに地主や貴族、寺社はそのような事をしているわけです。で、国家としては、直接このような地主、貴族、寺社から取り立てる方が速いという事ですね。

この法があったから、後々荘園が出来るという順番が史実のようですが、実際にはもう地主や貴族、寺社は一大勢力となってしまっていて、既に荘園化していたといっても良いのです。

そこで、取り立てる方法を替えた。永年に私財にしてよいので、そこから何十%を治めるように、という流れです。
実際の順はどうも逆のようなのですね。

さて、このような記述もあります。

その後も、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしているとされた(続日本紀)(ウィキペディアより引用)

実際には1万人までは行っていませんが、それでも8000人程集まった事はあるようです。
しかし、当時は武道館のような、音響の良い建物なんてありません。

それこそ丘から喋るという方法なので、うまく声を届かすといっても2000人くらいが精一杯。

実際に行ったところで説法(というより講演)を聞ける場所を取れないかもしれません。
しかし、そんな時代でそれだけ人が集まるくらい慕われていたようなのです。

このように、行基さんは全国各地レベルに寺社を持ったり、地主として活動しました。

実際にはそこまで仏教に熱心という訳ではありません。
それよりも「行動あるのみ」ばかり言っていた感じです。(結果的に仏教と重複するところはあったみたいですが)
また勢力が大きくなりすぎると、仏教をどうしても外すわけにもいかなかったようです。

スタイルとしては、地主+行商+布施+仏教。

仏教は最後ですね。この人にとって。

さて、史実としては国家が行基さんと協力し大仏を建てた事になっていますが、実際には国家が行基の求心力を利用したもののようです。しかも承諾無しに一方的に任命した感じです。

仏教の普及に一番熱心だったのは、多くの人がご存知の通り当時の奈良王朝です。
大仏建立は国家の威信をかけたイベントだったのです。

しかも、行基さんがご高齢、病気で寝込んだ。
その時にそのような動きとなったようです。

行基さんは納得してなかったでしょうね。国家は法令的に財源を確保するために仏教を絶対化したところがあるので、行基さんは複雑な思いだったでしょう。

それにしても行基さん。
多くの人から慕われていたようです。

何故か一番素敵な笑顔は、実業に邁進し、世の多くの生活に困っていた人達を助けていた時が一番強く出てきます。

ちなみにこの時の私は女性で尼さんをしてたようです。
(と言ってもそんなに長時間接していませんが。)
当時私は20歳位、行基さんは50歳位。

私は1尼寺に入った所。行基さんは全国あちこちで大忙し。
十数年程同じ時代を過ごしていますが、そんな感じなので、接点は殆どありません。

現在残っている史実では仏教を広めた僧、といったイメージが強いですが、本当の姿はちょっと違っていて、生活に苦しんでいた人々をあらゆる側面から救った実業化のイメージが強くあります。

・・・とまあこれだけ思い出す事になりました。

影響を与えた人の数はかなり多かったので、私と同様の記憶を持っている方も多いのでは?と思います。

さて、この次ぎは法隆寺です。

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