前世歴史探訪 その1.大化の改新645年 闇の時代の始まり

前世歴史探訪

前世の記憶からは、愛の喪失。と同時に闇の時代の始まりが、大化の改新、だと見ております。

この頃から、日本史の中でも書で出てくるようになります。

御神事系の話では、日本はこれまでに5度の岩戸が閉まっていますが、最後の岩戸閉めがどうもこの頃です。
以降、現代まで、日本は闇に包まれる事になります。

負の感情の連鎖の型が、実はここから始まっているようです。

これが、大化の改新(645年)ですね。

実は、蘇我氏の滅亡は、その後の日本を闇に包む事になった、非常に重要な出来事なのです。

1.大化の改新 第一段階 乙巳の変(645年)

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり、実質的に政権を掌握していました。
その後、中大兄皇子が蘇我入鹿を討ち滅ぼす出来事です。

Ⅰ.史実の乙巳の変

643年には蘇我蝦夷は病気を理由に、子、蘇我入鹿を大臣にし、これに対し、中臣鎌足(後の藤原鎌足)、中大兄皇子(後の天智天皇)らがクーデターを計画します。

645年6月12日、中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺を実行。
645年6月13日、蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制が終焉。
645年6月14日、皇極天皇(女帝)は退位し、弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となる。

ここまでが第一段階です。

Ⅱ.前世の記憶の乙巳の変

643年に蝦夷は病気を理由に、子、入鹿を、大臣ではなく、とある役職に付けます。
また、この年、その他にも多くの動きがありました。(詳細については現段階では記載する事ができません)

645年6月12日に蘇我蝦夷が病により崩御。
645年6月13日に葬儀の際、蘇我入鹿を火刑による暗殺を図るが失敗。この時から事実上、中大兄皇子と蘇我氏の敵対関係が始まる。
645年6月14日即位した孝徳天皇は、蘇我氏に関係している人物。皇極天皇の弟ではありません。
645年10月頃、中大兄皇子一味により蘇我入鹿を暗殺。

Ⅲ.乙巳の変の真相

実際の所は、地位をかけた争いといった所です。
また、孝徳天皇は、中大兄皇子の家系とは違います。
蘇我氏は、非常に重要な家系です。
この部分は相当に、謎として書き換えられています。
残念ながら、そこに愛がありません。

2.大化の改新 第二段階 改新の詔(646年)

第二段階は、法令を出すというものです。

実は、それまで政治の法令化はありません。
それまでの聖徳大使の冠位12階の制度や、17条の憲法は後に法令化として存在した事にしたようです。

Ⅰ.史実の改新の詔

1.全ての土地は公のものとする。(公地公民制)
2.旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、律令制にする。首都を大阪(難波)に。
3.戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
4.公民に税や労役を負担させる制度の始まり。(租・庸・調)

このような内容を大化の改新の翌年に発令します。

Ⅱ.前世の記憶の改新の詔

1.公地公民はそもそもそういう意識だった。特に制度化はしていなかったが、この時より制度化。
2.それまでは地区、地域は明確には決まっていない。当時は大和・飛鳥に人が最も集まり、実質的には首都。
3.4.それ以前はそういった制度は無かった。
それまでは与える政治だった。納税という概念が無い。
政府は自然と与え、民も寄付を自然とし、王と民の間で自然と循環が成立していた。

この時以降、初めて税収が始まります。

なお、大化の改新の詔から、実現までにはかなり時間を要し、全て形式化するのは奈良時代に入る頃。

Ⅲ.改新の詔の真相

それまでは与える政治が、この時より徴収する政治に変わりました。

3.大化の改新 第三段階 実質としての蘇我氏滅亡

Ⅰ.史実

孝徳天皇と中大兄皇子は不仲となり、653年に中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、群臣もこれに従い、孝徳天皇は翌654年に憤死することに。(謎)

658年孝徳天皇の子、有馬皇子も謀反の疑いで処刑。

Ⅱ.前世の記憶

孝徳天皇にあたる人は中大兄皇子の一味によって暗殺。
孝徳天皇の子、有馬皇子も謀反を企てたわけではなくその後暗殺。
このようにして蘇我氏は滅亡。

また、史実に出てくる孝徳天皇が天皇家とは関係していない。
別の者がなっていたか、当時は混乱期の為、不在の可能性のどちらか。(不在の可能性が高いとみています)

Ⅲ.真相

実際には蘇我氏滅亡を、天皇家の内輪揉めに書き換えています。
やはり、愛のある書き換えではありません。

4.この他に判った事

Ⅰ.飛鳥から難波に移った本当の理由

大化の改新以降、中大兄皇子一味は地元飛鳥の民からの反感が強かったようです。
蘇我氏の信頼が厚かった為。

これに対して、中大兄皇子は難波に遷都することにしました。

ちなみに飛鳥には蘇我氏に関係する者、もしくは支援する者が多く残る事になります。

Ⅱ.中大兄皇子の飛鳥奪取までの流れ

645年大化の改新直後、中大兄皇子の軍勢は難波の地を中心に1万人程。
これに対し、飛鳥に残った蘇我氏の軍勢は1万5000人程。

孝徳天皇にあたる人物は、大化の改新後も飛鳥宮に引き続き残っていました。

その後654年、孝徳天皇にあたる人の暗殺。この時、実質的に中大兄皇子が飛鳥宮を奪取していました。
戦争の跡は殆ど無いのですが、民衆からは相変わらず反感が高かったのです。

飛鳥宮では、孝徳天皇の子、有馬皇子を中心に反抗結集するものの、658年に暗殺。
蘇我氏はここで終焉。

このようにして、中大兄皇子は飛鳥・難波・京都を中心に近畿の平地部を支配下に治めます。

大化の改新の意義としては、一旦ここで区切りとなります。

Ⅲ.中大兄皇子の重税

内乱、遷都。の連続の為、多大な費用を要し、民の負担は厳しかったのです。

その結果、多くの民は、地主、寺社、地方豪族等、を頼って逃げ込んだようでした。

Ⅳ.この段階での勢力図

中大兄皇子(後の天智天皇)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)
大海人皇子(後の天武天皇、天智天皇の実弟)
安倍氏(陰陽師系)

VS

蘇我氏(滅亡)
賀茂氏(陰陽師系)

ちなみに史実では、中大兄皇子の側近にも蘇我氏はたくさんいるが、どうも後から書き換えた可能性が高め。

Ⅴ.それまでは、どの国家も愛の政治だった

史実上では、蘇我氏は天皇の権威を奪った民族という事でしたが、中央では、与える政治、愛の政治を行った、最後の氏族でした。

王は国政で民の繁栄を望むべく、民に協力していた。
一方、民は、民の希望で王に治めていた。

だから、古墳のエネルギー波は高いものが多いのですね。
民と王の間で、愛の循環が強かった為なのです。

なお、地方豪族はこのような感じで、全国区で、小国家を形成していました。(人口にして、数千人~数万人程度)

中央の飛鳥での、蘇我氏の実質的終焉は645年とも言えますが、氏族的な意味では658年のようです。

しかし、蘇我氏周辺にいた人々達は決してその思いは忘れていなかったようです。

5.まとめ

このように、大化の改新は、時の政権によって書き換えがたくさんありました。
ですが、残念ながら愛の書き換えではありません。

負の感情の連鎖の型。
はここから始まっているのですが、この直後に起こった出来事。

それは、日本全土を巻き込んだ負の感情の型へと変わっていくのです。

その為、多くの人が苦しむ事となります。

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