今回の御神示のマンデラ・エフェクトは、第一巻 扶桑之巻 第二巻 碧玉之巻になります。
やはりですが、2周目とはいえ、五十黙示録に入ってからも、かなりのマンデラ・エフェクトを見せています。
無の元について、新たな世界を産み出す元の事について、次々と書かれて始めています。
また、内側と向き合う事の重要性、岩戸開きに向けて大きな意味を成す事。
この二つの巻には書かれています。
更に、フトマニ、については以前からも伝えられていたと思いますが、
今回は、かなり詳細になっています。
そして、御神示そのものが、誰の目にも黙示とうつるようになった。
と明確に記載される流れとなりました。
また、五十黙示録に記載されていた出来事は、実は、岩戸開き後の出来事で、そのまま書いてあったので、この事にも驚く事となりました。
それでは順にお伝えしますね。
- 1.マンデラ・エフェクト 気になる文面 五十黙示録 第一巻 扶桑之巻
- 2.マンデラ・エフェクト 気になる文面 五十黙示録 第二巻 碧玉之巻
- Ⅰ.反対が反対で無くなる方法とは立体になる事。その手法は無限
- Ⅱ.岩戸が開けると、さかさまのものが出て来る。マコトの神様さえ魔人のワナにかかっている
- Ⅲ.初登場、正法、について
- Ⅳ.マコトとは、宮であり、西(二四)と東(ヒムカ四)に宮建てるコト
- Ⅴ.中の中の中の見えぬもの掴まねばならない、外側からばかり清めて何もならない
- Ⅵ.目立つ文面、その時では間に合わん、善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、次の世の新しき世の有様
- Ⅶ.立替、立直し、一時に来ている、われよしの人民にはわからない、神の申す通り素直が一等
- Ⅷ.初登場、ナミの命が、黄泉大神様へ
- Ⅸ.御自身は、化け物?鏡は御神示
- Ⅹ.マコトのミロクの世は六六六、動きは666が必要
- ⅩⅠ.新しき選挙の方法について
- ⅩⅡ.フトマニの詳細について
- 3.まとめ
1.マンデラ・エフェクト 気になる文面 五十黙示録 第一巻 扶桑之巻
Ⅰ.〇(レイ)が全ては元、世の元の仕組について
第二帖
●〇(レイ)がもとぢゃ、(中略)、結びぢゃ弥栄ぢゃ、よく心得なされよ。世の元、〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水(一と三)のドロドロであったぞ、その中に五色五頭の竜神が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、今の人民は竜神と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神とは理⦿であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ。
世の元の始めについて詳細に書かれたものは、初めてと見ています。
一切は、〇(レイ)が元です。
そして、結び、でもあるのです。
弥栄そのもの、でもあるのです。
世の元は、〇の始めから、一と現れるまでは〇を何度も何度も、万回もくりかへしてきたのです。
一と三のドロドロ、十を産み出す繰り返しだったのです。
それが、五色五頭の竜神様が働きなされて、作り固めたのです。
その型が五柱の神様でもあります。
竜神様とは、⦿の理です。
ですから、五色の竜神様とは、国常立尊の御現われの一(ヒトツ)でもあります。
Ⅱ.五十人について、複数の解釈を意識してください
第五帖
●天の声あるぞ、地の声あるぞ、和して十の日月地と現はれるぞ。五十人の仁人が出て来るぞ、仁人とは神人(カミヒト)のこと、この仁人が救世主であるぞ、救世主は一人でないぞ。各々の民族に現はれて五十人であるなれど、五十と言ふ数に囚われるなよ、五十人で一人であるぞ、数に囚われると、判らんことになり、岩戸しめとなるから気つけおくぞ。
五十人の仁人、カミヒトが現れる事になります。
そして、救世主、でもあるようです。
そもそも、救世主、という表現は初めてのように思います。
恐らく、元は無かったと思います。
最初から救世主、という伝え方をしますと、救世主の登場を待ってしまう事になるのでしょう。
行をしなくても、待っていれば現れる。といったような解釈をする危険性があった為だと思います。
ですが、愈々となり、行をした者からでないと、カミヒト、救世主、と成らない事。
自身から、行をし、カミヒト、救世主になる以外、道が無い事も判って来た為、このような記述になってきたと見ています。
救世主、という単語が現れた以上、愈々が始まり、もうその時までそれ程時間が残されていない段階に入ってきたとみています。
救世主は一人ではなく、各々で五十人現れますが、これも解釈が様々あるようです。
五の十人(カミヒト)で一人。という解釈もできますし、
コト(五十)になった人、という解釈もできます。
五十人には、あらゆる数、あらゆる可能性がありそうです。
また、段階に応じて、様々のようです。
ですから、数に囚われないようにしてください。
Ⅲ.三分の一の人民とは、ミタマ判ったヒトの人民の事。九の八七咲かせる以外無い
第七帖
●三分の一の人民になると、早うから知らせてありたことの実地がはじまっているのであるぞ。何も彼も三分の一ぢゃ、大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組ぢゃ、三分六ヶ敷いことになっているのを、天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ、カンニンのカンニン、ガマンのガマンであるぞ、九⦿(光ノ神)の花咲くぞ。
三分の一の人民は残りそう。
そのような文面ですが、実際の所は、アフンの仕組、等の記述も考えますと、
そんなに甘いものではない、と見ています。
三分の一の人民になると、とは、
ミタマ分けのヒトの人民ばかりに、なるとの仕組から二二の仕組で生まれ変わるようです。
その後、進む世界の結果、ようやく三分の一の人民になるのではないでしょうか。
そして、三分の一(ミタマワケのヒト)で新しき礎となるのです。
ですから、三分六ヶ敷いコト、なのです。
天に神様にお願いして、一人でも多く助けて頂く以外、知らず知らずのうちに犯しました、罪、穢れ、過ちを神直ひに、大直ひに、見直し聞き直し頂きますよう、特にお願い申し上げます。
そう祈るしかありません。
その為、日夜の苦心が求められるのです。
カンニン(火ん二ん)のカンニン(火ん二ん)、ガマン(我真ん)のガマン(我真ん)なのです。
しきまきや、の行から、御自身が新たな世界を産み出し、また新たな世界に移行し、三四五に移行する以外ないのです。
九⦿、九の元、九の喜びとは、光の神、です。
光の神の花(八七)を咲かせてください。
Ⅳ.救ひの手はヒムカシより差し伸べられる
第八帖
●救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、その東とは、東西南北の東ではないぞ、このことよく判りて下されよ。今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ、ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ。
ヒムカシとは、無より、しきまきやを起こし続ける事です。
それは、昔にヒを付ける、という事でもあります。
ですから東西南北の東ではありません。
今の方向では東北(ウシトラ)です。
ウシトラは東北です。
世界の雛形で言えば、ロシアになるのです。
ですから、おろしやの悪神様が鍵を握ります。
ウシトラコンジン様は、国常立尊様です。
地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神様です。
始めの始めですし、終わりの終わりです。
弥栄の弥栄です。
イシヅヱ、は、新たに産まれるヱ(左九下四)の意志(一四)でもあり、それがイシヅヱでもあるのです。
Ⅴ.初文面、時節参りて誰の目にも黙示とうつるようになった
第十二帖
●神の御手に巻物があるぞ、その巻物の数は五十巻ぢゃ、この巻物を見たものは今迄に一人もなかったのであるぞ、見ても判らんのぢゃ。巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙となって了うのであるぞ、人民には判らんなり。説くことは出来んなり、この巻物は天の文字で書いてあるぞ、数字で書いてあるぞ、無が書いてあるぞ、無の中に有がしるしてあるぞ、心を無にすれば白紙の中に文字が現はれるのであるぞ、時節参りて誰の目にも黙示とうつるようになった、有難いことであるぞ、岩戸がひらけて愈々の時となったのぞ、始めからの巻物よく読んで下されよ、よくより分けて下されよ、何も彼も一切ありやかに刻まれてゐるぞ、残る十二巻と一巻は人民では判らんぞ、無の巻物ぞ、空に書いてあるぞ。
行を積み、省み、御神示を読み、を繰り返してきた方は判ってきていると思いますが、
御自身のしてきた事が、御神示にその内容が書かれるようなマンデラ・エフェクトが起こるのは、行を積んできた結果、以外ありません。
そして、カミヒト共に、神の思ひが判って来るのです。
故に、解いて読もうとすれば、それは白紙となるのです。
実は2021年7月には、1年半継続した連続投稿を終える時に、御神示を読んで欲しい巻、
キの巻、アホバの巻、五十黙示録の、扶桑の巻、龍音の巻、五葉の巻。の
5つを勧めたのですが、その詳細を書いた内容、その記事そのものが現在では別の時空に行ったようです。
今となれば、その記事は重要では無くなった為です。
このように、マンデラ・エフェクトで消える方もあります。
ですから、人民には判らないようになっていますし、説く事も出来ないのです。
こ(九)の巻物は、天の文字で書いています。
それは、・、でもありますし、て(左四下四)から産みだした、ん、でもあるのです。
数字で判るようになっています。
無が書いてあります。
有が書いてあります。
そして、また御神示を読めば、さらに判って来るようになります。
それは、日々の行と共に理解できるようになっているのです。
また、残り十二巻、一巻は判らないようになっています。
それは、行を積んだカミヒト共に、理解、見える世界だからです。
時節が来て、遂に御神示も黙示、として多くの方に判るようになってきましたが、少しでも早く、大神様の御心をご理解し、行を進め、4つの行から、日々の大難を小難と化し、そして、御自身のコトの世界へと進めて下さい。
Ⅵ.まわりには十の宝座、五十と五十で百の光、千となり万となり億(奥)となる
第十四帖
●神の御座(みくら)のまわりには十の宝座があるぞ、十の宝座は五十と五十、百の光となって現れるのであるぞ、大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあろうがな、五十種の光、五十種の色と申してあろうがな、光の中に百億の化仏(けぶつ)ぢゃと申してあろう、百が千となり万となり億となるのであるぞ、今迄は四の活物(かつぶつ)と知らせてありたが、岩戸がひらけて、五の活物となったのであるぞ、五が天の光であるぞ、白、青、黄、赤、黒、の色であるぞ。
神の御座(みくら)のまわりには、十の宝座があります。
御自身が神(十)となり、身がくら(九〇)となれば、やがて周囲に十の宝座が現れます。
十の宝座、それは、まず十名の方が現れるでしょう。
行を進めて行くと現れるようになるのです。
ですから、十の宝座とは、最後は、五十と五十となるのです。
そして、皆が成る訳ではなく、三分の一が入れ替わり立ち替わりして、最後に残る方が五十名です。
それが、七七、四十九、そして御自身の一を合わしての五十の仕組ですね。
最後は、天地、表、裏の仕組で合わせて百でしょうか。
それは、五十種の光、色、となるようです。
光の中には、百億の化仏があるようです。
やがて、百が、千となり、万となり、億(奥)となります。
今迄は、四の活物が、五の活物となるのです。
五が天の光であり、白、青、黄、赤、黒、の色となるようです。
このような、百の仕組について、その後、億(奥)までなる流れについて、具体的に記述されだしのも初めてと見ています。
Ⅶ.天地がアメツチとなっている時、その時は過ぎているのだから、自分の足で歩む時
第十五帖
●天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は我(ガ)が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、神人(カミヒト)とならねば生きては行かれんのぢゃ、天地がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられてゐた人民たちよ、もうその時は過ぎてゐるのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。
第十五帖、最後の文でも、その多くは新しく変わっています。
天も地も近くなり、天地がアメツチとなって来てゐるのです。
カミヒトとなる以外生きては行けなくなるのです。
ですが、目覚めている人は少ないです。
途中、昇り降りで激しくなり、衝突するものも出てきます。
他人におんぶされたり、車に乗せられてゐた人民は、とても沢山いますが、
その段階、その時もう過ぎてゐるのです。
自分の足で歩まないとならないのです。
大地をふみしめてください。
大地の気が御自身の身の内に甦るようになります。
2.マンデラ・エフェクト 気になる文面 五十黙示録 第二巻 碧玉之巻
Ⅰ.反対が反対で無くなる方法とは立体になる事。その手法は無限
第一帖
●反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、漸次(ぜんじ)輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ、低い世界は戒律なくてはならんぞ、人民の頭で、戒律と秩序、法則をゴッチャにして御座るぞ、平面と立体とをゴッチャにするのと同じ迷ひの道であるぞ、気つけ下されよ。病むことは神から白紙の巻物をもらったことぢゃ、この巻物をどんなに読みとるかによって新しき道がひらけるのぢゃ。神からの巻物おろそかにするでないぞ。
反対の世界と合流する時、平面の上でやる間は濁るばかりです。
合流する方法は、立体でやらないとならないのです。
もう一段上の世界を産み出すのです。
それは、しきまきや、から新たな世界を産み出すのが基本です。
立体となれば反対が反対でなくなります。
更に立体から複立体に、複々立体に、立立体にと、
漸次輪を大きく、広く、深く進めて行かないとなりません。
しきまきや、を永遠に繰り返して行くのです。
そして、御自身の世界で岩戸開きが起こります。
この時、重要なのは、
低い世界の戒律、秩序、法則と、立体をゴッチャにすると同じ迷ひの理に入るのです。
病むコトは、神から白紙の巻物をもらったコト。
とありますが、病んでないない方はいません。
この巻物をどんなに読みとるか。
九のまきもの、まきものを、真のキを母に返す動きまで、読み取る(四三十流)事ができれば、
それは、無限の可能性がある事が判るでしょう。
段階が進む毎に、神からの巻物とは、永劫の愛、無限の愛であった事が判るようになってきます。
Ⅱ.岩戸が開けると、さかさまのものが出て来る。マコトの神様さえ魔人のワナにかかっている
第二帖
●気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和にならんと知らしてあろうがな、今度は合わんものと合せるのぢゃ、岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢゃ、この行(ぎょう)、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢゃ、マコトの神さえ魔神のワナにかかって御座るのぢゃ、人民がだまされるのも無理ないようなれど、だまされてゐては今度の御用は成就せんぞ。
岩戸が開けますと、さかさまのものが出てきます。
実は、これを書いている10月13日、私自身にもさかさまのものがでてきているのです。
どうも、岩戸が開きますと、さかさまのもの、反対のもの。
が出て来るようになるようです。
この行は中々ですが、これが出来ないと岩戸はひらけないようになっています。
マコトの神様でさえ、魔人のワナにかかっているので、人民がだまされるのは無理はないのですが、
だまされてゐては、今度の御用は成就しないようになっています。
Ⅲ.初登場、正法、について
第四帖
●真の懺悔(ざんげ)は正法をおさむることであるぞ、掃除することであるぞ。先づ御(おさ)め、次に治(おさ)め、次に知(おさ)めねばならんぞ、
有法につきましては二十五有法等ありましたが、正法は、恐らく初めてです。
掃除して、御(おさ)め、治(おさ)め、知(おさ)め。
の順です。
Ⅳ.マコトとは、宮であり、西(二四)と東(ヒムカ四)に宮建てるコト
第五帖
●七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけるとと九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこと、これでよく判るであろうが、マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、摩邇(マニ)の宝珠(タマ)であるぞ、
マコトについての詳細も初めてに思います。
七は成り、八は開き、八のくま(九真)、からひらきかけ、
ひらけますと、〇(れい)、九、十、との三が出てきます。
これを宮(三八)と申します。
合わせて新たな十一となり、これが御三体の大神様です。
(裏の仕組では御伝えしています)
そして、それがマコトなのです。
西と東に宮建てる、というのは、そのまま、左、右。さらにはその間にも2つ。
合わせて五三体の大神様でもあるのですが、
西(二四)と東(ヒ無火四)二、三八建てる、事から、
新たな世界を、しきまきや、によって生み出して行く事が判って来ると思います。
そのマコトの数を合わせますと、五と五十、となるのです。
これも、段階が進んできますと、岩戸を開いていきますと判って来るようになります。
中心に五があり、その周辺が五十、となっていきます。
中心に五名の仕組。
七七の仕組の五十名の仕組。
もありますし、十柱の神様との掛け合った仕組もあります。
そのような型が自然と、周囲に出来上がるようになってくるのです。
更には、別の解釈の型も出来上がって来るかもしれません。
段階が進む程に、立体、複立体、立立体、となる為です。
これが、根本(ウシトラコンジン様の岩戸開きにさらに岩戸開きに一が入る)の型であり、型の歌であり、型の数です。
それは、マニ(真二)のタマ(十真)、のようです。
Ⅴ.中の中の中の見えぬもの掴まねばならない、外側からばかり清めて何もならない
第六帖
●元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。
元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えないものを掴まねば、コトにならないようです。
そこから正さない事には、外側からばかり清めても、何もならないのです。
Ⅵ.目立つ文面、その時では間に合わん、善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、次の世の新しき世の有様
第八帖
●四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生れると申してあろう、神民の食物は五穀野菜の類(たぐい)であるぞ。今の人民の申す善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、次の世の新しき世の有様であるぞ、取違いせぬように、悪と申しても魔ではないぞ、アクであるぞ。大峠の最中になったら、キリキリまひして、助けてくれと押しよせるなれど、その時では間に合わん、逆立してお詫びに来ても、どうすることも出来ん、皆 己の心であるからぞ、今の内に改心結構、神の申す言葉が判らぬならば、天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ、納得の行くように致して見せてあるでないか。
次の世の動きについて、具体的な内容が沢山出てきていますが、
その時では間に合わん。
という文面も沢山出てきています。
現在、2極分化、急ぐこと。
を本当に伝えてきています。
悪魔ではなく、アクで動く事の理解が必要です。
あ九が、次の世(四)の基本的な動きなのです。
九を無限の過去を産み出すしきまきや、が基本です。
大峠の最中になれば、キリキリまひして、助けてくれ、と押し寄せることになりますが、
その時では間に合わないのです。
皆御自身の心からです。
神様の申す言葉が判らなければ、天地の在り方、による動きをよく見極めてください。
判りやすい所は、国のマンデラ・エフェクトですね。
緑地が増えている傾向が強まっています。
中国、南米、アフリカ、インドネシア、等が拡大化傾向です。
そうでなければ、現在の世界を保つ事ができない動きになってきています。
この他にも、中国の北京は、加速度的に、海寄りに移動してきています。
ベーリング海のアリューシャン列島が南下し、拡大しているのも、
地震を請け負う地を海寄りに、広くに変化させている為です。
この後、更に納得いくような、マンデラ・エフェクトが起こっていくでしょう。
Ⅶ.立替、立直し、一時に来ている、われよしの人民にはわからない、神の申す通り素直が一等
第九帖
●立替、立直し一時に来ているから、われよしの人民には判らんことになるぞ、この世の動きが判らんのはわれよしざからぞ、今度の岩戸びらきは五度の岩戸しめを一度にひらくのであるから、人民には中々に理解出来んことに、折り重なってくるから、何事も神の申す通りハイハイと素直にきくのが一等であるぞ。
現在、立替、立直し、一時に来ています。
それは、あらゆる所から岩戸開きの動き、小さい動きから始まり、やがて大きな動きへと変わって行きます。
こ(九)の世(四)の動きが判らないのは、われよし、の為です。
今度の岩戸開きは、五度のイワトシメを一度に開きますので、
人民には中々に理解できない事が折り重なってきますので、
(それは、段階が進んでいる人でも全てが判るわけではないのです)
何事も神の申す通りハイハイと素直にきくのが一等なのです。
Ⅷ.初登場、ナミの命が、黄泉大神様へ
第十帖
●岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、(中略)妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。
岩戸しめの始めは、ナギとナミの命の時、というのは以前よりありました。
ですが、妻神様は、黄泉大神様となられ、黄泉国の総べてを生み育て給ふた事が
今回、明らかになりました。
妻神様が、黄泉国と関係していた記述もありましたが、黄泉大神様、となられたのは、初めて、と見ます。
そして、夫婦神が、千引の岩戸をひらき、相抱き給う時節が来たのです。
うれしうれしの時代となってきたのです。
Ⅸ.御自身は、化け物?鏡は御神示
第十四帖
●頭と尻尾だけでは何も出来ん、化物ぢゃ。八尾八頭(かしら)の時代はすんだのであるぞ、【かんじん】の胴体がないぞ、日本が胴体であるぞ、日本を何処に忘れて来たのか、自分でも判るまいがな、尻の毛まで抜かれた化物の姿、鏡にうつして見るがよい、鏡は神示ぢゃと早うから知らしてあろうがな。
肝心の胴体が無い、日本が胴体、ここまでの話は以前ありました。
ですが、日本を何処に忘れて来たのか、自分でも判るまい、とあり、
その後、尻の毛まで抜かれた化物の姿、鏡にうつして見るがよい、
とあります。
御自身が、実は、化物、というように伝えてきています。
御自身が化物、と取れる方もいらっしゃったと思いますが、ここでは、明確に、全ての者に向けて伝え出す様になりました。
このようなニュアンスで伝えたのは初めてと見ます。
鏡は御神示になります。
Ⅹ.マコトのミロクの世は六六六、動きは666が必要
第十五帖
●五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
五六七のミロクの代、コロナも含め、五六七から六六六へ移行する流れが、ミロクの世です。
六六六はマコトのミロクの世であり、ムムムでもありますが、ムムム、では動きがありません。
六六六は天地人の大和の姿ですが、動きがないから、そのままでは弥栄しません。
666となり、又六六六となる動きが必要です。
どうも、666の世界、3次元世界と、六六六(ムムム)との世界とは表裏一体の所があるようです。
これが新しき世の動きです。
ⅩⅠ.新しき選挙の方法について
第十六帖
●メクラの人民がいくら集まって相談すればとて、すればする程ヤミとなるのぢゃ、行き詰って【あげもおろしも】出来んことになるのぢゃぞ、総てを数だけで決めようとするから悪平等となるのぢゃ、メクラをいくら並べてみても何もならん、早う改心せよ、新しきタマの選挙があるでないか。
文面そのものは、以前と変わっていないと見ています。
ですが、新しきタマの選挙の方法が判ってきました。
神の申す通り素直に行を進めていけば、周囲が自動的に選挙で、人が決まっていくのです。
それは、必ず、現在の御自身に応じるようになっているのです。
人は、出会い、別れ、だけは、御自身でコントロールする事はできません。
必ず、現在の御自身に応じた方と出会うようになっています。
そして、別れる時も必ずきます。
ですが、段階が進みますと、新しきタマ(魂)は集まる上に、
最後は、永劫、生き通し、変化自在、超完成、超未完成となるのです。
いつでも、出会い、別れる事ができる為、出会い、別れ、という概念が無くなるようです。
ⅩⅡ.フトマニの詳細について
第十八帖
●氷と水と水蒸気ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ、総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。
フトマニについての詳細な説明は初めてとみます。
氷と水と水蒸気は、同じであって違うの同じく、地には地の、天には天の、
神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則、秩序があります。
また、霊界に起こった事は、そのまま現界に移る訳ではなく、物質界が、霊界に反影するといっても、そのまま反影する訳ではありません。
総べてが太神様の中の動きですから、喜びが法則となり、秩序となって統一されるのです。
それがフトマニです。
それは、太神様の歓喜から生まれたものですが、太神様もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則です。
鉄則ですが、無限角度を持つ球ですから、如何ようにも変化して誤らない、マニの球でもあります。
それは、絶えず完成から超完成に向かって弥栄します。
そして弥栄するからこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まらないのです。
この事が判れば、次の世の在り方の根本がありやかになります。
3.まとめ
五十黙示録では、遂に、黙示録としての現れ、と明確に伝え始める事になりました。
今回は、元の世界の始まりについて。
そして、明確に黙示、として伝え始める事になりました。
五十人の意味。
そして、岩戸が開けると、反対のもの、さかさまのものが出て来るようになる事。
御自身の元の元の元。中の中の中に向き合う事。
また、黄泉大神様、が登場したり、御自身が化物である、という明示も始まりました。
さらには、新しい選挙の方法の在り方。
フトマニの詳細も判ってきました。
このように、三四五に移行にするに辺り、まず岩戸が開いた後、全ては、ムから変えていくのですが、一方で、その時になってから間に合わない、神の申す通り素直が一番、と急ぐ事も伝え始めています。
現在、岩戸が開き、逆様になってきた方々も、しっかり御自身の行を進めてください。
それは、現在の大地の動きのまま、です。
時間はそれ程残されていません。