今川氏真。
史実の多くでは、今川家を滅ぼした大名ですとか、評価が低い事が多いのですが。
しかし、実際はその逆。
平和をもたらしたきっかけを作っただけでなく、彼の子孫は大いに繁栄していきます。
桶狭間の戦いで今川義元亡き後、今川家では家督を子、今川氏真が引き継ぐ事になります。
当初、表向きは徳川家康と敵対関係にもなっていましたが、後年徳川家と密になったという理由。
これも後々明らかになっていきます。
1.今川氏真は平和主義
今川氏真は父義元とは性格が真逆と言っていい程平和主義でした。
野心はゼロと言ってよいです。戦いを徹底して嫌っていました。
この性格になった理由として、大きな影響を受けていた人物がいたのです。
2.太原雪斎を尊敬していた
父、今川義元は太原雪斎とソリが合いませんでしたが、
子、氏真は、太原雪斎の事を大変尊敬していたようです。
幼少の頃より、直接教えを受けていたようですね。
氏真17歳の時、太原雪斎は死んだ事にして生きていますが、その時以降も密な関係だったようです。
太原雪斎としても、氏真があまりにも平和主義すぎる為、戦国時代の君主としては向かないとは思っていたものの、
平和な時代であれば、君主としてあって欲しい姿とも思っていたようです。
ですから、雪斎から見ても、彼はほっとけない存在だったようです。
3.争いの世の国政から離れていく
桶狭間の戦いの後、当初は雪斎、織田信長を中心に戦略を練り、東海の所領を自身の弟子である徳川家康を三河に、その他を今川氏真に家督を継がせ、その場に応じて様々な采配をしていました。
本音では、氏真の性格を汲み取りながらも、彼を立派な大名にはしたかったようです。
ですが、彼が取った行動の多くは、同盟、援軍。
主になって戦う事はありませんでした。
その結果、所領を武田家と徳川家、また一部は北条家と分けあい、今川家は衰退していく事になります。
桶狭間の戦い後、徳川家とは度々戦いにはなったようですが、形だけの意味合いが強く、今川家内での内乱をとりまとめる為の手段としてあっただけのようです。
戦国大名としての今川氏真は、このように国家を滅ぼした大名であるとか、あんまり評判が良く書かれていない事が殆どですが。
実態としては平和をとりなす役目をしていたようなのです。
4.何故か多くの大名の心を掴む
彼はその後、不思議と多くの大名からかくまわれる事になります。
まずは妻の実家を辿って北条家にかくまってもらいます。
また、1573年には、織田信長は氏真の茶道具を買い上げようとした動きがありましたし、
1575年には、不思議と織田信長が氏真に公家との蹴鞠を所望しているのです。(そして実現しました)
心のどこかでは、織田信長、桶狭間の戦いの件で、やっぱり申し訳ないとの想いがあったようなのですね。
一方で、これを受け入れる今川氏真。
桶狭間の戦いの件があっても、それ以上に平和が重要なのだと思ったのでしょう。
また、1572年、徳川家康の庇護下になった後、家康とは、密な関係がずっと続く事になります。
1576年、徳川家康の元、牧野城(静岡県)城主に就任する事になりますが、1年程で解任します。
恐らくながら氏真から辞退したのだと思います。
その後、1582年、武田勝頼を討った後、駿河の城主に今川氏真を徳川家康が織田信長に推薦した話もあります。
これは信長から、一蹴されていますが。
5.文化人として生きる
彼は、どうも文化人として生きる道を最後まで貫き通したのですね。
その後京都に移り住み、公家と交流を図ります。
和歌、蹴鞠、にいそしみます。
戦いとは無縁の世界です。
しかし、これこそが最善の道だと彼は思ったようです。
6.徳川家康とは非常に仲が良い
氏真は徳川家康と非常に仲が良かったようです。
徳川家康は、ことある度に彼をかくまっています。
1576年牧野城城主に。
その後、徳川家康とは宴席を設けることしばしば。
1582年駿河城主に推薦。
その後、ことある度に家康と接していたようです。
江戸幕府成立後、1613年には品川に屋敷を与えられたり、最後まで優遇していたようです。
享年77歳。
7.東海の平和は氏真のお陰の部分がある
もう、何となくお判りだと思いますが、
太原雪斎の元、家康と氏真は桶狭間の戦い直後から親密だったようなのです。
氏真は、自身の家督には興味無く、時代の流れから、それはなるべく家康に譲ろうとしていたのがよく伝わってきます。
当時の今川家からしますと、とんでも無い、という声もありそうですが、ただ彼が徹底した平和主義だったから、東海の争いは殆ど起こらず(亡くなった者が少ない)全国統一に大きく寄与した一面もあったのではないでしょうか。
8.彼の子孫は徳川幕府の役人や公家として大いに繁栄する
この流れもあり、子孫は、徳川幕府内では旗本、その他役人として重用される事が多くなります。
実際に、幕末で新政府軍が幕府と戦う際、今川範叙が若年寄として兼任したのです。
何百年を越えて、最後は今川家が徳川家を支える事となったのです。
時代を超えて、支えあう関係は素晴らしい事ですね。
9.まとめ
戦国の世に生まれながら、ここまで徹底して、家督に興味無く、さらには戦いを嫌い。
和歌の道や公家の道に邁進した大名は他にはいないでしょう。
結果、所領は殆ど失いましたし、大名としては低い評価が多いです。
ですが、むしろ彼は長生きしていますし、子孫も繁栄しています。
何百年も先で、今度は子孫が徳川家を守る立場にもなったのですね。
彼の徹底した平和主義は、一旦所領を失う事となったのですが、最終的には大いに繁栄していますし、長生きもしています。
彼は、その後江戸時代といった、平和実現という意味では、彼も重要な役割を担っていたとも思うのです。