上杉包囲網という言葉は歴史上にはありませんが、
実は、これが織田軍東征の最終目的だったのです。
織田信長が上洛するまでを語る上で、ちょっとこの部分を飛ばす訳にはいきません。
桶狭間の戦いの後、今川軍は実質織田家の傘下となります。
この時、織田軍は、美濃尾張東海一帯。
そして武田軍とは、実質的に同盟に近い関係となります。
ですから、1560年段階で、織田家は中部地方の多くを支配する事になります。
また、この後は、西ではなく、まず東を攻める事に決めます。
1.東の諸大名との関係
桶狭間の戦い以降、東の3大大名との関係性です。
Ⅰ.武田家は協力関係に
信濃国の武田家は元来敵ではありましたが、1558年の斉藤家との戦い以降は、同盟の位置付けが強くなりました。
織田家としては、信濃国が東方に進む為には、地理的に重要。
武田家としても、過去から続いている上杉家、北条家に対する援軍的位置付け。
このようにして、織田家と武田家は、自然と同盟関係が強くなったのでした。
ですから、今川義元亡き後、東での実質上の巨大勢力は、北条家と上杉家の2大大名になったのです。
Ⅱ.不思議と敵対化しない北条家
血縁的には、織田家は平家の色が強く、また北条家も平家の色が強いのです。
北条家は後北条家とも言われ、鎌倉時代の北条家(平家の色が強い)とは無縁という説もあったりしますが、実際には血縁関係はしっかり受け継がれているのです。
つまり平家の流れを引いているのですね。
一見因果関係が無さそうでもあるのですが、不思議な事に、北条家と織田家は実質的には敵対関係にはなりませんでした。勿論、信長包囲網の時等、形上の敵対化は幾度もあったのですが、結局の所、織田家とは、本格的な争いにはなっていません。
むしろ、間接的ですが、桶狭間の戦い以降、武田家と同盟を結び上杉家と戦う事が多くなります。
1590年小田原平定の時も、もし織田信長が堂々と生きていて、織田信長の傘下にという要請なら、すんなり話は進んでいたと思います。
Ⅲ.目標は上杉家の沈静化
このように、織田家にとっては、東征にあたり、上杉家が事実上の頂点決戦と見ていたのです。
ですが、上杉家は非常に強い存在です。
武力では東方では1番と言って過言ではありません。
実はここでも戦いを挑むのではなく、本来は上杉家を傘下にするのが第一目標でした。
ですが、それは難航するのはわかっていたので、第二目標として、越後国を包囲しようとするのが実際の目標となったのです。
持久戦に持込み、最終的に傘下にするのが第二目標だったのです。
2.上杉家は桶狭間の戦いの後、関東の支配を強める
桶狭間の戦いまで、東では武田家の周囲に上杉家、北条家、今川家と拮抗した状況がずっと続いていたのですが、1560年5月、桶狭間の戦い後、上杉家は一気に北関東から北条家へと攻め込みます。
上杉家としては、今川義元亡き後、東日本の支配のタイミングは今しか無いという事になったでしょう。
まず第一に東日本の上杉家による南北ラインの完成。
その次に、そして北条家の討伐です。
1560年暮れには上野国(群馬県)を支配下に置き、翌年1561年早々武蔵国に攻め込み、2月には鎌倉を落とします。この時、新潟~鎌倉まで上杉家による東日本の分断に一旦成功。第一目標は達成です。
1561年3月には、足利義輝承認の元、関東管領に就任します。
また、関東諸大名にも北条家討伐を呼びかけ、この時殆どの大名が上杉家に追従。
(現在の、栃木、茨城、千葉県の大名)
北条家はこの時に囲まれてしまい、一旦は最大の危機を迎えます。
上杉家は、本当はここで一気に討伐したかったのですが、この短期決戦は失敗します。
急ぎすぎだったのでしょう。
一方で、越後には武田家の侵入の噂が出始めます。
この為、一旦撤収せざるを得なくなります。
3.織田家の目標は上杉包囲網
織田家は、この上杉家の動きに対し、着々と上杉包囲網の準備をしていました。
Ⅰ.武田家と共に川中島より攻め込む準備をする
それがまず、1561年8月、川中島の戦い(4回目)となります。
実は、これには狙いがあって、上杉家が関東に攻め込む際、地元越後が手薄になるという事が判っていたのです。
また、上杉家が越後に軍を戻した際には、関東の方が手薄になると見ていたのです。
その際には北条家と同盟を組み突破するという狙いでした。
この戦いで武田軍の武将がかなり亡くなったとされていますが、実はこの戦い自体ではそれ程大きな被害は出ていません。私の前世の1つもここで死んだ事になっていますが、実際にはその後、死んで生きるという事になります。
4回目の川中島の戦いとは、謙信含む中心部隊を、一旦越後に戻させる為のものだったのです。
Ⅱ.越中、神保家と同盟し西側を封じる
武田家は越中(富山)の神保家と同盟を結びますが、実は上杉包囲網の一環だったのです。
こうして、越後の西側を封じる事になります。
Ⅲ.東北3大名と協力体制に入るのが一旦は最終目標
最後は越後の東の向こう側、東北3大名と協力関係となり、上杉家を囲む事が目標です。
3大名とは、最上家、伊達家、南部家ですが、彼らの協力によって越後国を包囲する計画です。
4.実際の結果
それでも上杉家は東では、武力としては東日本ではno.1でした。
その後、かなりの反撃をしているのは事実です。
1561年の北条征伐には失敗後、越後に戻ってきていますが、戻ってすぐの8月の川中島では、大きな動きは無いものの拮抗の戦いではありましたし、翌年、1562年には、西の神保氏については、逆に撃退しています。
このように、1561年~1562年にかけ、ちょっと苦労した時期でしたが、1563年にはようやく目標が達成する事となります
5.1563年、東北の大名達との協力関係が成功する
実は、上杉家と武田軍との戦いは完全に終わった訳ではなく、停戦といった状況でした。
バッタリ会ってしまえば戦う可能性もあったのです。
その中で重要だったのが、東北への突破。
そして、東北諸大名との実質的な同盟関係だったのです。
まずは現在の織田軍の現状、そして拡大していったいきさつ。
この事を伝えるのが目標で、これが重要な意味を持ったのでした。
その伝達役が明智光秀だったのです。
とにかく、上杉軍の集中をそらし、一気に抜けて、東北に向かう作戦だったのです。
明智光秀は、この時、武田軍として戦っていたのですね。
そして1563年、上杉家の所領の中、戦いも起こりましたが、なんとか突破し東北にたどり着きました。
伊達家、南部家、最上家の順に廻り、織田家のここまでの現状を伝えたのでした。
こうして上杉家の東側の大名達に、鉄砲等を謙譲し、上杉包囲網の協力する約束を取り付けたのです。
※余談ですが、明智光秀の前世では、伊達家の者、最上家の者とはご縁が深いのです。
6.上杉家、関東を攻めるが最終的には衰退する
上杉家は、体制を整え、1564年から関東に再度攻め始めます。
その後、北関東一帯~会津近辺まで支配する事には成功します。
一方、この時には、武田軍、北条軍が主になって戦いますが、史実には乗っていませんが、実は織田軍の援軍(実態としては今川軍)がかなりあったのです。
武田軍勢力ですが、毎度毎度、軍の数が所領に対しかなり多いのですが、実は、この中には織田軍(実態としては今川軍)が結構入っているのですね。そして手柄を武田家に譲っている所があるようです。
この上で北条家と同盟も結んでいたのですから、さすがの上杉家も勢力的に対抗できなくなってきます。
一旦は支配下に置かれていた関東の諸大名達も、やがて北条家に寝返る流れになります。
上杉家は、このようにして、1566年辺りをピークに関東での勢いが無くなり、その後衰退していきます。
ちなみに、この時東北の大名達は、目だった争いはそれ程参加していません。
睨みを利かせるというだけで十分だったようです。
包囲網さえできれば、それで良かったのですから。
7.北条家も結局は織田家と同盟関係に近くなる
北条家ですが、上杉家を撃退した後は、再度関東での支配力が強くなります。
この後、北条家は織田家とは本格的に協力関係になったという訳ではありません。
ですが、勢力的には巨大になりすぎたこの2大名はもはや戦う訳にもいかなくなったのが実際の所のようです。
こうして、上杉家の包囲網が完成したのですね。
織田家の東の間接支配は大体このような流れです。
東側では、実質的敵対大名は上杉家だけというような状況になったのです。
これが1567年頃の段階の話です。
しかし、これもやがて足利義昭による信長包囲網によって、織田家との敵対関係は無くなったのでした。
8.まとめ
このように織田信長は、東征を進める際にも、極力戦いを避けていく方法を取っていこうとしたのです。
本来なら上杉家を戦わずして傘下にしたかったのですが、それは無理としても、包囲網を敷く事で、争いの頻度を抑える事には成功しました。
上杉家は、領土拡大のスピードはありましたが、民衆達の心、また同盟を結んだ諸大名の心までは掴んでいないようでした。
このようにして、戦いを先に仕掛けた者は結局は衰退していくという事。
これは織田信長、明智光秀、共に前世でも経験済みだったのです。
それは、戦わない事の重要性もありますが。
民衆の心を掴む事。
大名・家臣の心を掴む事。
この時にもそれは発揮し、その後全国統一への流れを作り上げる事となります。