明智光秀は、本能寺の変の際、死んで生きた事にして、最終的に徳川家康の参謀役。
天海上人として生きているのですが、これがイマイチ信憑性が無いとされています。
それは年齢にあります。
私の前世の記憶からは、明智光秀は1532年生まれになります。
で、天海上人は、最終的には1643年まで生きた。
つまり111歳まで生きた。
私自身、明智光秀が天海上人説で、一番疑問に思ったのが、111歳まで生きた事なのです。
当初、これがいくら何でも信じられなかったのですね。
多くの人が、明智光秀=天海上人な訳が無いという。
という事は科学的にはある意味自然な話なのです。
ですが、実際には、明智光秀、天海上人。繋がった所では、
本当に111歳まで生きたのですね。
特にあの重い時空間だった戦国時代で111歳まで生きた。
この事実は結構重要な事だったのです。
1.時空間波動が低いとやはり生涯寿命も短い
歴代の著名人、有名人を調べていても気付くと思いますが、19世紀以前については、世界各国、どんなに長寿の方でも大体90歳くらいまでなのです。
現代では110歳位まで生きる人も結構出てきているのですが、これは栄養状態の問題もありますが、何より時空間波動が変わってきているのが大きな要因と見ています。
ですから、戦国時代の中での、徳川家康73歳。細川幽斎76歳。
戦国の重い波動の中では十分長寿なのですね。
この時代は人生50年と言われていた時代ですが、実際平均寿命は50歳位でした。
(戦死者が多かったからですね)
ですから、関が原の戦いの時、主導権を握っていた人達は、じいさんだらけです。
当時、天海上人68歳、織田信長66歳、細川幽斎66歳、徳川家康58歳、
戦国時代ですから、実際いつ天命が来てもおかしくないのです。
今であれば、まだまだ若い。という事になりますが、この当時、現代に換算しますと80~90歳位の人達によって、関が原の戦いを画策したという事になります。
ですから、この中でいくら何でも111歳というのは、どう考えても信じられなかった。
当初これが正直な思いでした。
2.戦国の時空間の中で111歳まで生きた理由
この時代では、時空間波動は低いですから、寿命100歳オーバーの人って皆無のはずです。
この状況下で彼が111歳まで生きた理由。
その理由は、彼が次元上昇を果していたからです。
(7次元まで来ていたようです)
ですからその年まで生きる事ができたのですね。
もうこれしか無いのです。
それは、この転生の時、相当な徳を蒔いたことに、関係があるのですね。
それは、明智光秀としてよりは、死んで生きた時代の時、本能寺の変後~江戸時代黎明期。
この時に多大な徳を蒔いているようなのです。
ちなみに信長公も90歳まで生きているのですが、同様に次元上昇していたからのようです。
3.天海上人の業績
天海上人の業績について、判っているものだけでも次のようなものがあります。
Ⅰ.延暦寺の復興
延暦寺焼き討ち後、比叡山延暦寺は乱れていた状態になっていました。
延暦寺を中心に比叡山の修復を進めていきます。
Ⅱ.江戸都市計画の提案
陰陽道を取り込んだ独自の都市計画を進めていきます。
江戸城の建設も協力していたようです。
そもそも、江戸を幕府の地として選んだ理由。
様々な説があると思いますが、家康の生まれが三河であり、基本的には時の権力者は、生まれより東に作るという事がありました。これは古代の神話で全てそうなのです。
本来なら、自身のゆかりの地という事なら、尾張、美濃、三河が候補になってきてもおかしくありませんが、明確に東で、という事では関東という事になったようです。
また、京都は光秀にとって迷惑をかけた地という事もありましたし、豊臣家の問題もあり、気が引けたのかもしれません。大坂も豊臣家の問題もありましたし、外されたようです。
京都、大坂は様々な争いがどうしても絡んでいて、この点で避けたように思えます。
後、彼らの前世的の問題もあるように思えます。
日本って世界の縮図とも言われています。
そうなると関東は中国になってくるのですね。
実は三国史で失敗した前世を今回統一する事ができた。
という意味でも関東を選んだ気がするのです。
Ⅲ.朝廷と幕府との橋渡し役
やっぱり彼は皇室と関係があったからでしょうか。
幕府との橋渡し役をしていたようです。
自然と言えば自然です。
Ⅳ.一切経の印刷と出版を企図
一切経(大蔵経)の印刷と出版を計画し、死後5年後、幕府の支援もあり完成。
天海上人の業績では、ここの評価を一番にする人も多いようです。
Ⅴ.2代将軍秀忠、3代将軍家光の名は光秀から取った説は本当?
繋がった所、これも本当です。
徳川家康とはかなり密な関係だった事は間違いなさそうです。
Ⅵ.本能寺の変~関が原の戦いまでにした事
天海上人になるまでの話は、史実に無い部分になりますが、ここでも徳を多大に蒔いています。
この18年間、全国あちらこちらに駆け巡っていたようです。
東では徳川家の他、伊達家とは密で、西では、島津家と密な関係性だったようです。
秀吉が全国統一する迄は、西日本諸国や北条家、信長公との間での内通役だったようです。
その後、朝鮮出兵の際では、主に西日本諸国大名と信長公と内通をしていたようです。
海を渡ってはいないようですね。
大雑把にはこのような流れですが、詳細についてはかなり長くなりそうですので、またいずれという事にします。
このように、足利将軍家臣時代、明智光秀、その後18年、天海上人。
確かに1人の人間ができるような仕事量には思え無い位、様々な事をしてきたと思います。
4.超高齢で亡くなった人は徳を蒔いている人が多い
当時で言えば、ちょっと抜けた位、高齢で亡くなっている人。
やっぱり徳を蒔いている人が多いですね。
例えば親鸞聖人。彼は90歳まで生きました。
鎌倉時代では、60年~70年生きれば十分長寿で、この時代での90歳は長生きとしても、ちょっと抜けている次元です。
彼が長生きだった理由はたくさんあると思いますが、その1つに、やっぱり多大な徳を蒔いていたからというのはあるようです。
5.超高齢で亡くなっている人は楽しんでいる
後、超高齢で亡くなっている人は、日々を楽しんでいる傾向があると思います。
何か根を詰めた感じの人はどちらかと言えば少ないと見ています。
これは、天海上人、親鸞聖人、両方に感じる事です。
6.時空間波動が軽いと寿命も長い
栄養状態の問題も大きいですが、時空間の波動が軽いと、寿命は長い傾向があるようです。
現代の全てではないにせよ、ある部分では時空間波動が軽いのです。
それは、徳を蒔いているだけでなく、日々を楽しめている人が、増えてきているからのようです。
これは日本に限らず、地球全体でも当てはまるようです。
だから、長生きしている人は増えてきているようなのですね。
7.まとめ
明智光秀が、天海上人として生き、111歳まで生きたのは本当です。
この当時100歳オーバーまで生きる人はほぼ皆無のはずなのですが、その中で111歳まで生きた理由。
それは徳を蒔いた量が非常に多いのですね。
実際亡くなる間際まで精力的に活動をしていたようです。
また、楽しんでいますよね。
徳を蒔き、楽しみながら活動しますと、波動が軽くなりますし、長寿になる傾向があるようです。