前世歴史探訪 その6.千利休事件1591年 豊臣秀吉を動かした真相

前世歴史探訪

豊臣秀吉は、本能寺の変後、着々と日本統一に向け進みます。

実際には、諸大名は協力的だった事が多く、難航したのが、西では毛利家、東では北条家でしたが、案外あっさり統一できます。1590年の事です。殆ど兵も減らす事はありませんでした。

ですが、1591年には重大な事件があったのです。
実は、2度の朝鮮出兵、これがきっかけになっているところもあります。

それが千利休事件です。

1.秀吉の中国への侵攻はいつから考えていたか?

通説では、1585年頃から外征、最終的に中国まで考えていたようですが、これはその通りです。

1586年には関白になりますが、同じ年に美濃で大地震が起こります。
これも予兆的なものと見ています。

正式な朝鮮出兵は1592年になるのですが、実は日本統一後、1590年段階で、様子見で既に試し的なものがスタートしていたようです。

2.主たる軍師は、実は服部半蔵(千利休)

豊臣秀吉にとっての主たる軍師。また相談役。
実は、本能寺の変以降は、服部半蔵です。

伊賀の忍者の頭領でもあり、茶人でもあり、また占術師でもありました。

この服部半蔵、別の姿の1つが千利休なのです。

千利休、実は、予知能力がありました。先読みができるのですね。

Ⅰ.当初は、朝鮮、中国にも勝てると予想していた

彼の目から見た限り、中国は衰退、李氏朝鮮も衰退。いずれ攻め込めば勝てると見ていました。

また、豊臣秀吉は日本統一は間違いなく、上昇機運にも違いありません。
当時見えたのは、日本の勝利のようでした。

秀吉の中国侵攻については、本人の考えもありますが、千利休の助言が大きな要因となっていたと見ています。

Ⅱ.豊臣秀吉と服部半蔵、前世からの思い

豊臣秀吉は、三国史時代、中国統一を目標に掲げた君主という前世がありました。
服部半蔵も同様で、三国史時代、中国統一を目標に掲げた君主の前世がありました。

ですが、実際には後年、別の者が成し遂げたのです。

1つは中国で、統一を成し遂げられなかった思いが強かった。
ここが共通の思いです。

ちなみにこの2人は時代と場所がズレがある為、三国史時代は出会う事なく終わったようです。
ただ、ライバル的な意味はあったように思えます。

Ⅲ.豊臣秀吉は白村江の戦いのカルマを繰返していた

また、豊臣秀吉は、実は白村江の戦いの時に朝鮮に居たようでした。
その時は、日本軍にやられたのです。

実はその時の敵が今回は朝鮮に居るようでした。

朝鮮に至ってのカルマは場所が入れ替わっているだけで、同じ相手といがみあっているようなのです。

負の感情の連鎖が、同じ魂で、場所が変わって起こっていたのですね。

この後、2人の仲を決定的に引き裂く出来事が起こります。
それが千利休打ち首事件です。

3.千利休打ち首事件の真相

千利休打ち首事件の真相はかなり謎とされています。
これも10説程あるのですが、どれも決定的なものがありません。

1591年の事。
千利休は、それまでは中国外征では勝てると予知をしていたのですが、何故か勝てないという未来に変わってしまったのです。

千利休はそこで、あらゆる所を調べなおします。
この時、初めて気付いたのです。

何故か、中国の後ろに織田信長の影が見えたのです。

そうなのですね。
織田信長公が中国側に情報を送っていたのです。

ですから、この時からですね。
織田信長が生きていた事が判ったのが。

また、明智光秀も生きていたのがわかりました。

そこで、現在どこにいるのか確認してみました。

山陽、広島の辺りに居ました。
どうも広島宮島、厳島神社に寄っていたようなのですね。
普段は織田信長はそのような場所には居なかったのですが、この時は朝鮮出兵前という事でそこに戻ってきたのです。

その後、生け捕りにしようとしたのですが、失敗します。
(この時ですね。どうも信長公は時空間テレポートしたのです。)

豊臣秀吉は、もう中国遠征、朝鮮出兵の準備もできているような状況です。

そもそも、中国に勝てるという千利休の予想の元、準備を進めていたのですが、予想が変わってしまい、朝鮮出兵に反対をしだした。

これが一番の理由です。

もう1つは信長公、明智光秀が生きていた事を見抜けなかった。
これも面白くなかったのでしょう。

4.豊臣秀吉、織田信長、明智光秀、それぞれの思い

また、全国統一をした要因。

どうにも織田信長、明智光秀、この2名による部分が大きいのだと判ったのです。

豊臣秀吉にとっては、何よりもこれが、一番面白くなかったのです。

Ⅰ.本能寺の変以降、殆どの戦いが降伏や投降だった

確かに事が上手く運びすぎでした。

そもそも本能寺の変以降、西の諸大名は強力な大名ばかり残っていました。

四国の長宗我部氏、九州の島津氏、龍造寺氏、大友氏、中国の毛利氏等、どの諸大名も強力です。

その殆どが、戦う事なく降伏。

実は、これは明智光秀、織田信長達が忍者等介して様々な伝達、説得が多くありました。
場合によっては交換条件等もあったでしょう。
殆どは説得によって戦う事なく、人を減らす事なく平和に統一が進んだのです。

秀吉が実質的に攻め込んだのは、東の北条氏の篭城戦くらい。

何か自分の力で全国統一を果した感が無かったのですね。

どうしても、自身の力で統一をして見たい。
千利休亡き後で自分の力で統一してみたい。

それが朝鮮出兵になった部分はあったと思います。

Ⅱ.織田信長、明智光秀の誤算

信長公、光秀は、この点だけが誤算でした。

本当は、日本統一、朝鮮への出兵は無く終えてほしかったのです。
そして愛のある国家を作って欲しかった。

それも、最も野心が強かった、豊臣秀吉の手によって作って欲しかったのです。

これができてこそ、本当の平和が日本に訪れると思っていたのです。

織田信長は、朝鮮出兵間近になり、実は中国や李氏朝鮮側に、事前に情報を伝える等手回しをしていたのですね。
それで事前に出鼻をくじき、争いを止めようとしたのです。

この事もあって、中国、朝鮮側も戦いはある程度有利にはなったようですが、それでも双方ダメージがかなり残ってしまう戦いとなってしまいました。

Ⅲ.豊臣秀吉のその後、江戸幕府擁立まで

全国統一後、東北で九戸政実の乱が起こったりで、朝鮮出兵を足止めするような出来事も起こるのですが、結局は1591年8月頃、朝鮮出兵を表明します。

成功したのは最初の1ヶ月だけ。その後は衰退の一方でした。

多くの人の反対を押し切った結果、多くの人に迷惑をかけたのです。
そして、1598年に亡くなり、関が原の戦いとなり、徳川家康が日本をとりまとめ、江戸幕府を擁立したのですね。

5.織田信長、明智光秀、本当の願い

信長上洛後~全国統一まで、約17年間ですが、実は、戦いらしい戦いがありません。
殆ど人が亡くなっていないのです。

大体は、後から書き換えた話になっているものが殆どです。

あえて言うならば、山崎の戦い、並びにその絡みではかなり亡くなりましたが、それ以外はかなり平穏に進んだのです。

本当はと言えば、朝鮮出兵が無く、日本統一で、平和な世にしたかったのです。

そのサポート役が東は徳川家康、西は島津義弘(途中までは義久)だったのです。
明智光秀は死んで生きて世を動かし、織田信長も同様でしたが、千利休事件以降は時空間テレポートしたのです。
(但し、通信はテレパシーでできた状態)

6.まとめ

壬申の乱、豊臣秀吉の2度の出兵、そして現世。

実は現世も、同じ事を繰返しつつあります。

そのカルマはやはり完全に解消したとはまだ言えないと思います。

特に戦国時代に生きた魂は現世ではかなり多く、特に2度の出兵で何らかの形で関わっている人、日本では全体の4割以上は占めています。

と同時に
北朝鮮。韓国。では6割程。
中国でも4割程占めているようです。

今回だけは、同じ事を繰返さいよう。
そしてあの時の辛い思いは繰返さないよう。

今度は平和な世を実現していかなくては、本当に世界が終わってしまいます。

実際、その予言をしている人。
半島有事ですね。
そのビジョンが点いたり消えたりしている人は本当に多いと思いますが、
現代も常々、一触即発の危険な状況は変わっていないと思います。

特に、朝鮮半島に絡んだ過去からの連鎖

それを防ぐ方法は、

負の感情連鎖の解消。

その時の状況を理解し、そして憎まなくなる。

この部分を止める事は本当に重要なのです。

<<前に戻る
>>次に進む
カテゴリートップへ戻る
前世の法則トップに戻る