玉置神社の次は熊野速玉神社です。
玉置神社から麓に降りてくるまでで約1時間近く。
そこから熊野速玉大社まで、車でまた1時間程かかります。
上の地図ではそれ程距離が無さそうですし、カーナビでもそうなんですが、山道が細く、狭い場合、ちょっと想像以上に時間が取る事があるんですね。
ちなみに、熊野速玉神社まで、熊野川流域をずっと走るんですが、その景色はとても素敵でした。
【熊野川】
このような景色がずっと続きます。
ほっこりしました。
昔の人々は、熊野本宮大社に参った後、この熊野川を下って熊野速玉大社に参拝したようです。
1.熊野速玉大社
熊野速玉大社は、近隣の神倉山の盤座に祀られていた神を、いつ頃からか移動させ、この地に祭られるようになりました。
繋がった所によると、丁度、天皇家の熊野御幸が始まった頃からになるようです。
Ⅰ.熊野御幸
熊野御幸は、平安時代宇多上皇より、天皇家の熊野御幸の行事が始まりました。
907年の事です。以降1303年まで396年間続いてきた天皇家の行事です。
京都、住吉、和泉、紀伊半島を南に田辺より、中遍路、本宮より熊野川を下って、ここ熊野速玉神社に参拝。その後那智山、雲取から本宮に戻りその後、往路で戻るというコースで約1ヶ月かけてお参りしていました。
以降、多くの者が同様の参拝をするようになりました。
公家、武士、様々な者が参拝をしたようです。
Ⅱ.拝殿
【熊野速玉大社拝殿】
拝殿です。
波動が高いですね。
【熊野速玉大社、神三殿】
拝殿の右側にあります。
【熊野速玉大社、八社殿】
さらに右側には八社殿があります。どこの社も波動が高いです。
【熊野速玉大社参詣曼荼羅がある看板】
この看板には、熊野御幸には、後白河上皇が34回、後鳥羽上皇が29回参拝したと記載してありました。
平安末期~鎌倉初期の混乱期で、その事情、心情はよく判ります。
また、神倉山では、神武天皇が聖剣を授かり、その後大和に入り、日本を治めた事になったという記載もありました。(日本書紀)
これはどうも本当ですね。
神倉山からこの地に移されたから新宮。という事のようです。
新宮市の云われがそのような所にあるとは思いませんでした。
ですから、神倉山が重要なのでしょう。
この時は行ってませんが、次回には行ってみたいとは思っています。
2.熊野神宝館
境内の手前にあります。
実は、後から思ってみても、速玉神社内でも一番気になった所が、この熊野神宝館でした。
(撮影は禁止です)
全ての熊野神社を参拝したのですが、ここでは、かなり古い宝から数多くありました。
しかも、波動の高い宝がたくさんありました。
3つある熊野大社の中でも宝物殿でも、ここが一番集まっています。
やはり天皇家にとって非常に重要な意味があったのだと思います。
特に気になったのが、南北朝時代の絵巻物ですとか、陶器ですね。
これは、とても波動が高いものでした。
感覚的なものですが、縄文中期、大和古墳時代、南北朝時代のエネルギーはかなり似ているのですね。
どうも、この熊野速玉大社は、平安時代天皇家が、熊野御幸の熊野方面での拠点的な存在にしたのでは?と見ています。
熊野方面では、唯一平地にある大社ですし、そもそもは神倉山の盤座が本来の場所のようですし。
3.まとめ
この熊野速玉大社は、平安~鎌倉時代にかけ、天皇家にとって重要な大社のようでした。
907年から始まったという事ですが、この事情はよく判ります。
やはり平安初期の京都の混乱はそれなりに酷いものだったのでしょう。
祇園祭りだけではどうも治まらなかった感じですね。
ですから、当時神武天皇以来、重要とされていた熊野の地に足を運ぶ事となったようなのです。
ご利益的な御幸であれば、神武天皇稜等、奈良を経由したはずですが、大坂の地を経由という事は、どちらかと言えば災厄除けの意味合いが強かったのだと思います。
そして、その後平安時代は長期に渡り、保たれた事にもなったようです。
天皇家の御幸が途絶えた後も、重要な地に
後、気になったのは、1303年に御幸が途絶えた後に南北朝時代が始まるのですが、その時の宝がたくさんここで展示されていたという事です。
また、その波動が高い事。
それは、南朝が栄えていた事が判りますし、南朝の権力がかなりあったのでは?とも思うのですね。
実は、この南北朝時代。
何百年ぶりに岩戸が開きかけたのですが、結局、南北朝時代の終焉と共に、開く事なく終わってしまいました。
ですが、この宝の波動からは、そのきっかけ、感覚を掴み取る事ができました。
間違いなく南北朝の南朝は、岩戸を開けるきっかけになった存在だったのです。
もし、機会がありましたら、是非この熊野速玉大社の神宝館には行ってみてください。