壬申の乱。(672年)
それは、日本最大の内乱と言われていますが、実は内乱だけでなく、西日本全部を巻き込む大惨事だったのです。
この出来事で、多くの人が苦しむ事になります。
1.白村江の戦い~壬申の乱まで(通説)
中大兄皇子は、663年に白村江の戦いで完敗し、多くの人から反発され、それを避けるかのように、667年に近江京(琵琶湖の西南側)に遷都します。
通説では、その後、中大兄皇子、その子大友皇子、実弟大海人皇子、達が近江京に移ります。
668年に中大兄皇子は38代天智天皇として即位、672年1月に崩御。
その後、大友皇子が39代弘文天皇として即位。
また、中大兄皇子が崩御と同時期に大海人皇子は出家をします。
奈良吉野に逃げ、軍を再編。
大海人皇子は吉野~伊勢、尾張美濃で豪族や氏族に支援され、
672年6月に大海人皇子が大友皇子率いる近江京に琵琶湖の東側より攻め入ることに。
大友皇子は大海人皇子軍に追い詰められ、自害することになります。
その翌年大海人皇子は40代天武天皇として即位します。
しかし、僅か半年で勢力を一気に拡大したり、矛盾点もかなりあります。
ここで、前世の記憶から事実関係をみていきたいと思います。
2.中大兄皇子と大海人皇子の本当の関係
基本的には中大兄皇子が全て政治を決定していきました。
ですが、様々な提案は主に大海人皇子していました。
大海人皇子の意見は妥当なものが多く、度々中大兄皇子と衝突はしていたようです。
ですから、中大兄皇子ではなく、大海人皇子方の方が多くの人には信頼はされていましたが、軍勢的には当初は中大兄皇子側に付く者が多かったようです。
Ⅰ.白村江の戦い以降意見が真っ二つに
白村江の戦いは大海人皇子は全面的に反対をしていましたが、押し切って戦いを進めたのは中大兄皇子でした。
惨敗を喫し、その後、九州国家群からは多大なる反発を受けました。
その後、百済の難民達は近江京で引き取る。と称して近江京の建造労役させる為に雇った経緯もありました。
近江京では火を付けられる事が頻繁にあったようですが、これは多くの者から不満を買っていた為のようです。
九州小国家群。百済からの難民。地元の民。と多くの人達が不満を持っていたようです。
大海人皇子もずっと我慢をしてきましたが、自身としても本意で無い選択によって、多くの者から恨みを買う事にも耐えられなくなります。この近江京遷都の実現は、我慢の限界だったようです。
その後、大海人皇子は飛鳥朝に残る事となります。
以降、大海人皇子は独自の動きを続けていくことになります。
667年~672年にかけ、5年間、敵対型南北朝時代のようになったようです。
Ⅱ.額田王(女性)との関係
出生の詳細は不明ですが、万葉集等でよく出てくる方です。
どうも皇族ではなく、平民出身の方。
非常に聡明で美しい方のようでした。
かなり出世したようで、実質的には王朝の相談役までになりました。
また、中大兄皇子、大海人皇子、双方の側室にもなったようです。
どうも、額田王をめぐっての悲劇は667~672年にかけあったようですね。
思いは大海人皇子にずっとあったようですし、実際に王にふさわしい人も大海人皇子と思っていましたが、一方で政治的に中大兄皇子に対しても何とかしたいという思いもあったようです。
実は、壬申の乱の戦いが終わるまで、額田王は中大兄皇子の元にいたようです。
額田王は最終的には壬申の乱後、大海人皇子の側室となるようです。
彼女は兄弟両者から愛された人ですが、その悲劇は多く見てきたと思います。
3.大友皇子の真相
中大兄皇子の子、大友皇子は実は生存していた。
との説がありますが、それは正しいようですね。
関東方面。千葉に逃げたようです。お墓もあるそうですが、間違いないでしょう。
ただ、戦って逃げた訳ではなく、最初から出家したのです。
そう、出家をしたのは、大海人皇子ではなく大友皇子だったのですね。
これは、父、中大兄皇子の様々な行いに耐えられず、罪悪感から出家したようなのです。時期も近江京遷都の直前くらいのようですね。
その後、大海人皇子に追い詰められ命を落とす、とありますが、これがまた違います。
実際には、中大兄皇子によって追い詰められたのが真相なのです。
周囲に示しがつかなかったからでしょう。
後年、大海人皇子が追い詰めたと書に残したのは、大海人皇子が兄の罪を被っている事が真相のようです。
4.壬申の乱(前編)
このように実際の対立構造は、
中大兄皇子 対 大海人皇子 です。
但し、大海人皇子の思惑としては戦う事が目的ではなく、別王朝として本当の王朝を建てる事が目的でした。
求心力のある大海人皇子の元、飛鳥朝は年々大きくなります。
これに対し、中大兄皇子の元近江京は、多くの者から恨まれていた為か、衰退化していきます。
そこで、中大兄皇子は暗殺によって、飛鳥朝(吉野朝)を奪おうと計画します。
Ⅰ.大海人皇子は5年かけ、吉野より東側に勢力を強める
通説では、僅か半年で大海人皇子が美濃尾張で軍備を整え、戦った事になっていますが、実質的にそれは非常に難しい話です。
当時の勢力図ではやはり難波から京都、大津にかけては引き続き中大兄皇子の勢力圏には違いありません。(反感は買っていましたが)
一方、大海人皇子は同じ地域で勢力を高める方法は様々な理由から得策でないと見て、吉野から東側に勢力を高めていく事となります。
大海人皇子は中大兄皇子に比べ求心力もあり、吉野から美濃尾張にかけて勢力を広げていきました。
また、その噂を聞いた近江京の人達も、壬申の乱より前から、美濃尾張や飛鳥に流れていったようです。
Ⅱ.中大兄皇子の暗殺は失敗が続く
中大兄皇子は大海人皇子の暗殺を度々試みますが、全て失敗に終わります。
近江京は財政が乏しかっただけでなく、民衆からの不満も高く、年々状況は厳しくなります。
Ⅲ.窮地に追い込まれ、近江京は美濃尾張方面に攻め込む
中大兄皇子は飛鳥朝を取り戻す為、それまで、あまり影響を与えていなかった美濃尾張方面へ攻め込む事にしました。
飛鳥・難波では既に反感も買っていた事もあって、先に欲しい地は美濃尾張だったのです。
この時が672年ですね。
近江京は財政には余裕が無く、窮地に陥っていたようです。
ですから、肥沃な美濃尾張を狙ったのですね。
この時、中大兄皇子軍は1.5万人程。大海人皇子軍は3万程。
しかし、近江京は弱体化の一方です。
国家の兵もどんどん減る一方でした。
あせりもあったのでしょう。
動きも急で計画性があまりありません。
中大兄皇子は西の方面の小国家にも兵の招集をかけます。例の成果報酬型でです。
約1ヶ月後に集まるようにという事です。
こうしてみると関が原の地はどうしても天下分け目の戦いなのですね。
いざ戦いが始まると、やっぱりですが、大海人皇子軍の方が圧倒的に優勢です。
近江京は財政も乏しい為、近江京の兵達は、大海人皇子軍に殆ど投降するような状況でした。
実際には大きな戦いはあまり起こらず、むしろ投降してきた兵で大海人皇子軍はより強大になった感じです。
1ヶ月後には、1000人対4万人といった感じでした。
近江京は実質滅亡寸前となります。
しかし、中大兄皇子は実の兄。
せめて生け捕りにしたいと思っていたようです。
そして、ようやく中大兄皇子の援軍が来る時期になりましたが、ここで予想外の事が起こります。
(後編に続く)