1568年9月織田信長が、足利義昭を15代将軍として建て上洛しました。
ですが、当時周辺大名には当然反感を買いました。
本願寺家。浅井家。この2家が主になって反抗が続きます。
また他にも三好家、六角家、朝倉家等がありました。
まず、三好家は長年の敵でしたので、味方に付く事はありませんでした。
六角家はもはや浅井家や本願寺家の言いなりに近い状況。
朝倉家は元来中立でしたが、地理的に浅井家の隣接、どうしても浅井家の言いなりに。
まず、足利将軍時代からも最も縁の深い、朝倉家を味方にする事を目指します。
5.上洛後、京都を整備(1569年)
信長上洛後、1569年1月には三好三人衆が再度上洛を目指し、京都を狙います。
これは、信長勢によって撃退しました。
この後、まず織田家に対する忠誠を築く為。
烏丸中御門第(旧二条城)を中心に京都の街を整備します。
この時より1573年まで足利政権は京都で復活する事になります。
また、織田信長は、各諸大名の書状を出す際には事前連絡するように伝えます。
この時は、まだ足利義昭は、足利家復興をあきらめていませんでした。
足利義昭は早速この年、伊勢の北畠氏に軍門に下る指示を出しています。
結果、軍門に下る事はありませんでしたが、対織田勢に対する不戦を取り付けたのはその後大きな事となりました。
また、織田信長は、京の周辺大名に上洛要請で呼びかける事をします。
6.姉川の戦いから、京都周辺で戦いが激化(1570年)
1570年に入っても、軍門に下りそうな朝倉氏は上洛要請を無視し続けました。
1つは京都に向う道中、浅井家を通らなくてはならない事。
浅井氏とは同盟関係でもあり、簡単に裏切る事ができないことがありました。
Ⅰ.1570年4月姉川の戦い
一方、浅井家には信長の妹お市が妻としています。
信長の家臣はしびれを切らした者がいて、朝倉家に軽く攻め込みました。あまりにも立ち位置がはっきりしなかったからです。
この時、信長は浅井家の出方を伺いました。
妻の兄を取るか、同盟国を取るか。
この時、浅井家は朝倉家を取りました。
信長にとって、この段階で一番はっきりさせたかったのは浅井氏の動向だったのです。
残念ながら、どうしても傘下や同盟という事にはならなかった。
最初の信長上洛の時から敵対心の方が勝っていたからなのです。
ですから、この動きは想定内。
その後の動きを決めるための陽動作戦でもあったのです。
ちなみにこの戦いで、織田勢は琵琶湖の東側まで勢力を伸ばします。
Ⅱ.大坂方面では本願地家と対立
大坂でも織田家は勢力を伸ばしていましたが、本願寺家、それに追随するように三好家、六角家が挟み討ちに加わります。こちらは、1570年後半まで戦いが拮抗します。
京都の西側がこの状況に対し、9月頃再度浅井、朝倉勢が攻めて来ます。
ただし、京都を押さえているのは非常に大きく、どうしても戦いは京都の手前で止まるようになっているのでした。京都の地で争うと、民から多大なる反感を買うからです。京都ならではの有利さもあるのです。
このことがあって、かなり迎撃はしやすかったようです。
Ⅲ.足利義昭、停戦の指示
そこで、足利義昭は停戦・講和の指示を出します。
本願寺、三好、六角、浅井、朝倉、全てが動きが止まる事となりました。
これは、足利家将軍だからこそできた事でした。
おおむね1570年10-12月の頃、順次停戦になります。
7.信長包囲網(1571年)
1571年に入ってすぐ、足利義昭は、浅井家・朝倉家・三好家・本願寺家・延暦寺・六角家・武田家、上杉家、毛利家達に、反信長の御内書を順次下し始めます。
昨年末に停戦の指示をしておきながら、翌年には手のひらを返した事をし始めている。
極めて矛盾な行為ですが、これには訳があったのです。
実はこれは織田信長と相談の上で決めた事だったのです。
つまり、全て織田信長と組んだ演技だったのですね。
これには3つの狙いがありました。
Ⅰ.先に動いた者負け
1つは、先に仕掛けた者が大体弱体化する為。
簡単に乗らない事は判っていても、将軍の指示なので法的効力は確かにあるものだったのです。
実際には、殆ど動きませんでしたが、結果的に、周辺大名の動きを止める事にもなりました。
Ⅱ.足利家の力を確認する為
これは、諸大名の動きを持って、現在の足利家の権力がどの程度のものか理解する為という事もありました。
動いたり、それが無理でも返事があるというなら、足利家の力はまだまだあるという事ですし、無視されたとすれば、もう足利家は終わったとも取れます。その確認の為という事もあったのです。
隣接もしていない西の豪、毛利家の動きには注目していましたが、色良い返事はありませんでした。
Ⅲ.各大名の本心を確認
特に攻め込んできて欲しかったのが、石山本願寺でした。
また、こちらに下って来て欲しかったのが朝倉氏。
できれば、浅井氏もそうなってほしかったのですが、それは無駄と判っていました。
結果的には、浅井氏を陥落させる為の作戦になってしまいました。
その後、1571年9月には延暦寺焼き討ちがありました。
その詳細は諸説ありますが、ここでは省略します。
8.織田信長、着々と計画は進む(1572年)
この年は浅井家を北近江に追い込みます。
また、近畿にいる反織田信長勢は次々と敗れていきます。
史実にはありませんが、10月、朝倉家の一部は実質織田家の軍門に降りてきています。ただ表向きはまだ朝倉家は浅井家の同盟国として残る事になっています。戦略的には挟み撃ちする役割として残ったようです。最終的には浅井家と共に戦い亡くなった事になっていますが、少し事実と違っています。
同じく10月、信長は義昭に対して17条の意見書が送っていますが、半分は本気も、半分は演技でした。
仲の悪い所だけを世に知らしめればよいと思って送ったのでした。
と同時にこの段階で、足利義昭は将軍復興の道をあきらめたようです。
自身の影響力に限界があると思ったのでした。
中央ではもう足利家の名は殆ど通用していませんでしたが、地方にはまだそれなりに影響を与えていた事は事実で、引き続き将軍の仕事は継続しようとしていました。
それ以降は、織田家を間接的に支えていく事に決めたようです。
同じく10月、武田信玄は、徳川軍に戦いを挑みます。
三方ヶ原の戦い、とも言います。
ちなみに武田信玄は明らかな演技。
実際には、武田信玄と武田勝頼間の争いの問題が大きかったのです。
これを解決しつつ、織田信長の思いを満たそうというものだったのです。
この段階では、それ位、もう織田家と武田家の関係は絶対的なものだったのです。
朝倉家には手紙を送っていますが、これは朝倉家によって浅井家を挟み撃ちする、という暗の知らせも入っていたようです。
また、足利義昭を最終的には建てるという意味合いもありました。
ちなみに、織田信長は、この段階で、浅井家を倒せるという自信があったようです。
それが1572年10月だったのです。
9.足利義昭、次の仕事へ(1573年)
このように武田信玄が動きだした事もあり、足利義昭も年始から反乱と称し、京で立て篭もります。
4月には、武田信玄が病死、その後は死んで生きる事にして織田家に付きます。
この辺りの武田家の戦いは、殆どが作られている話です。
反乱を起こした足利家は7月に完全に解散する状態になりますが、実は足利義昭はこの後も織田家に間接協力していく事になります。
なお、この1573年8月。近畿でずっと大変な相手だった浅井家は滅亡します。
また、この展開があった為か、本願寺家も徐々にこの頃より織田家寄りになっていくようです。
10.信長包囲網のまとめ
信長包囲網。
その実態は浅井包囲網だったのです。
この時より、近畿一円、織田家の傘下となり、大きな争い、人が大量に亡くなる戦いもここで一段落したのです。
史実では、信長の上洛完了を1573年にしている事が多いようです。
しかし、それは足利義昭の協力無しでは不可能だったように思えます。
彼は、反逆者、裏切り者扱いされている事が殆どですが、実は大変な仕事をこの後にするのです。