信長上洛後、1569年1月には三好三人衆が再度上洛を目指し、京都を狙います。
これは、信長勢によって撃退しました。

この後、まず織田家に対する忠誠を築く為。
烏丸中御門第(旧二条城)を中心に京都の街を整備します。

この時より1573年まで足利政権は京都で復活する事になります。

また、織田信長は、各諸大名の書状を出す際には事前連絡するように伝えます。
この時は、まだ足利義昭は、足利家復興をあきらめていませんでした。

足利義昭は早速この年、伊勢の北畠氏に軍門に下る指示を出しています。
結果、軍門に下る事はありませんでしたが、対織田勢に対する不戦を取り付けたのはその後大きな事となりました。

また、織田信長は、京の周辺大名に上洛要請で呼びかける事をします。

6.姉川の戦いから、京都周辺で戦いが激化(1570年)

1570年に入っても、軍門に下りそうな朝倉氏は上洛要請を無視し続けました。
1つは京都に向う道中、浅井家を通らなくてはならない事。
浅井氏とは同盟関係でもあり、簡単に裏切る事ができないことがありました。

Ⅰ.1570年4月姉川の戦い