本能寺の変とは、実は最短で、かつ最善の日本統一の為に起こしたのでした。
いずれ秀吉は謀反を起こす未来は変えられない。
また、信長、光秀の事を隙あらば命を狙っている。
ならば、豊臣秀吉の思いに乗じる。
そして信長、光秀は死んだ事にして生き、支えていくのがベストとの判断をしていたのです。
シナリオは大体決まっていたのですが、その前に西日本諸大名との話し合いをまとめなくてはなりませんでした。
5.四国、九州、諸大名との交換条件
四国、九州諸大名との交換条件。
それは、超高性能銃の提供と引き換えに、協力、傘下を要請したのです。
狙いは2つありました。
実は、高性能の銃を手渡す事で相手は攻めにくくなります。
となると、どうなるか。
誰でもそうだと思いますが、高性能の銃があると、攻める事にためらいが出ます。
つまり攻めなくなる。
高性能銃を渡すことで、双方膠着化状態になるのです。
結果、争いが起きにくくなる。
自動的に戦争が起こりにくくなります。
これがまず1つ目の狙いです。
もう1つは政治的なものです。
交換条件が、傘下に入る事と、協力要請。
その後、日本統一後に優遇処置。
日本統一から逆算した提案です。
このようにして、諸大名と話を進めたのです。
6.鉄砲の実態
ここで鉄砲について、それなりに重要ですので、記載する事にしました。
鉄砲の伝来が最初九州の地でされながら、不思議と天下を取れなかった九州勢。
本来なら天下を取るのは九州の大名でもおかしくありませんでした。
しかし、天下を取れなかった一番の問題。
鉄砲が低性能の為と、性能向上が追いつかなかったからでした。
当初、実戦では使いにくかった、これが一番の理由です。
Ⅰ.当初なかなか普及しなかったその理由
伝来した火縄銃ですが、当初その能力はかなり低いものでした。
既に、西洋ではかなり普及していましたが、伝来と言っても中古の性能が低い物でした。
使わなくなった物が売られた可能性が高いのです。しかも、高値です。
1549年に九州で初めて実戦に使われましたが、それ程、役に立たなかったようです。
諸大名はその後、使い出すようにはなりますが、当初は、効果的にはまだまだ使えていません。
実戦で本格的に使用されるようになってきたのは、1570年代頃からと見ています。
Ⅱ.黎明期の鉄砲の欠点
1.装鎮速度が遅い。
火薬を詰め、次の玉を撃つまでに、時間がかかりすぎでした。
野戦では、刀や槍の方が素早く動け、よほど実戦的でした。
2.貫通能力が無い。
初期はその力もあまりありません。
鎧をまとっていれば、貫通しない事も普通。
3.命中率が低い。
支点から発射口まで距離がある為、ブレが大きいです。
この為命中しにくい構造です。かなりの腕が必要となります。
4.騎馬戦では不利になる。
騎馬戦では、馬が驚きます。
特に味方にいる時には、馬が騒ぎ足を引張ります。
騎馬戦と並行させるのが難しいのです。
5.使える場面が限定的。
このように野戦ではあんまり向かないことが多かったのです。
また、野戦では、味方に命中する事もある。
雨が降ってきても不利。天候も重要な問題でした。
ですから、使う場面は主に城での戦い。
また、全般的に攻撃よりも守備向き。
6.当初は高価。
多くの大名にとっては、経済的負担が大きかったのです。
そもそも1550年~1565年辺りまでは全国的に混乱期で、財政に余裕のある大名は限られました。
当時は高価でもあり、量産できない為、戦略化もしにくかったのです。
このように、普及はしつつも、当初は実戦でそれ程多く使われる事は殆ど無かったのです。
Ⅲ.本格的に使われ出したのは1570年頃
その後、様々な改良が進みましたが、織田家は独自にかなり改良しました。
特に装鎮速度、貫通速度がかなり上昇したのです。
これはバネをうまく働かせたものでした。
本格的に使われ出したのは、1570年頃ですね。
この時、地元愛知だけでなく、近畿近江、大坂、辺りでは腕の良い職人が集まり、量産化も進みました。
本願寺家との争い(特に雑貨衆)は大変でしたが、1580年にようやく戦いが収まります。
しかし、本願寺家との争いで非常に重要なのは、一向一揆を防ぐ事ができた。民衆が協力してくれた。だけでなく、鉄砲集団、雑貨衆が敵に回さなくて済んだ事です。また、鍛冶職人も味方に付けた事で一気に軍事力が高まる事になります。
7.最初に同盟的立場になったのが、島津家
西日本の諸大名とは、超高性能銃を提供する代わりに、傘下・協力を要請していきました。
そして、まずは島津家に了解を得ます。
1580年の事でした。
また、前世の関係からも島津家は非常に重要でした。
地理的にも西の端と極めて重要でもありました。
実は西の諸大名を挟み撃ち。という意味もありましたが、挟む事で、優位な説得ができる事が目的でした。
次ぎに、実質的傘下を四国の長宗我部氏と結びます。
続いて九州の龍造寺氏、大友氏等、九州の諸大名も島津家経由で了解に取り付けます。
支配・傘下というよりは協力関係ですね。
これがパタパタっと一斉に決まったのが1582年です。
これで西側諸国に対しては準備が万端です。
西側諸国では、毛利家だけはまだ取り付けられませんでしたが、丁度秀吉と戦っている最中もあって、事前準備もしやすくタイミングとしてはベストだったのです。
ちなみに細川幽斎は、本能寺の変の前に、明智光秀の罠で丹後に閉じ込められます。
ですから、出るに出れなかったのが実際の所です。後に、明智光秀に参戦を断る。という逸話は後年作られたものです。
本来なら、明智光秀と細川幽斎は実の兄弟。
秀吉によって、打ち首で普通でしたが、このお陰で、細川幽斎は命拾いしたという事もあります。
8.本能寺の変の真相
こうして、1582年6月2日に本能寺の変を決行します。
正直な所、あまりに急に全ての準備が整ってしまったので、本当は明智光秀としては、もう少し根回しをきっちりしてからにしたかったようですが、そうもいかなくなってしまいました。
織田信長は船で逃亡の準備をしていました。
本能寺に火を点けましたが、実質はもぬけの殻です。
明智光秀は、本能寺に参上しますが、それも焼き討ちしたふりだけをしています。
(実際に火を点けたのは織田信長)
続いて、丹波に逃げる前提で、山陰方面に軍を進めます。
Ⅰ.その時豊臣秀吉は?
この時豊臣秀吉が、まず本能寺の変の知らせを聞いたタイミングですね。
電話とか無い時代ですので、通常事件が起きても話が届くのに数日かかるのが当たり前です。
ですから、数日で引き返した話自体、もうおかしい話なのです。
実は、事前に準備した為、本能寺の変の起こる数日前に、知らせが秀吉に入るようにしていました。
本能寺の変決行の前に通知したのですね。
ですから、秀吉は、実質的には2週間程の期間を持って、一時停戦し、引き返したのですね。
また、毛利家の西からは九州の諸大名、四国も長祖我部氏他諸大名によって戦いを起こすふりをしました。
で、豊臣秀吉は、撤収する事にしたのですが、すんなりと毛利家も一時停戦を受け入れたのです。
実は皆協力して事を起こしていたのです。
こうして、豊臣家は引き返す事になったのですね。
Ⅱ.山崎の戦い
秀吉軍が戻ってきますと、山崎の戦いになりました。
この時は明智光秀は逃亡が目的です。
彼は、東に逃げたとデマを流し、実際には山陰方面に逃げます。
こうして、明智軍は霧散します。
実際には、事前に準備した首で、亡くなったとごまかします。
Ⅲ.その後は豊臣秀吉が主権を握る事に
このようにして、その後は豊臣秀吉が権力を握る事になります。
その後、西日本諸大名を殆ど戦わずして傘下にしていきます。
やや揉めたのが毛利家と、北条家くらい。
ですので、本能寺の変以降、日本統一までの8年間は殆ど人が亡くなっていないのです。
本能寺の変以降の戦いは、概ね後年書き換えられたものが殆どで、例えば戦いの兵数の表記があるだけで、死者の記載が無い事も多いです。それは、後から書き換えられたから、(もしくは無い事実を作ったから)なのです。
これが、後年の愛の書き換えなのですね。
戦いの記載がある場合、諸大名の功績、敬意を払ったものが多いのです。
Ⅳ.細川幽斎と豊臣秀吉のその後
光秀、信長とは本能寺の変後、幽閉中に占術師を通し、本能寺の変の真相を聞きました。
また幽閉が解かれた後も、光秀や信長と占術師を使ったり等で、情報交換をしていきます。
細川幽斎は閉じ込められたまま、そのまま幽閉され、2年後、京都のとある者の進言によって幽閉が解かれます。
その後は、主に京都の守護役に近い立場でした。
また、主ではありませんが、軍師的な立場でもあり、傍にいる事も多かったのです。
ですから、幽斎は秀吉の情報収集役、かつ伝達役が主な所です。
9.まとめ
織田信長は、鉄砲をあえて渡す事で、戦いを起こさないようにしていきました。
なるべく戦いを起こさずして西日本諸大名と話をまとめたのです。
本来であれば、豊臣秀吉の元、平和な世にしたかったのですね。
これが本能寺の変の段階でのベストシナリオなのです。
ですが、残念ながら、全てが思い通りにはなりませんでした。
日本統一後、朝鮮出兵となり、多大なる人を負の連鎖に巻き込んでしまったからです。
実は、現世も、戦国の世と同じ型になりつつあります。
私自身、450年ズレでここまで様々なイベントが起こっていますが、ですから2041年が、千利休事件と重なり、やっぱり危険なのですが(一応は第三次世界大戦になる未来が存在し、世界滅亡のシナリオも存在している)、そうならないように、事前に変えてしまいたいのです。
ちなみにですが、最悪のシナリオは勿論今すぐにでも起きてもおかしくはありません。
現代から450年引きますと、2020年は姉川の戦いがありましたし、2021年は延暦寺焼き討ちがありました。
そのような雰囲気は年始からイラン米国の争いがありましたし、今後そのような事にならない事を祈っています。
現代ならではの問題として、天変地異、戦争、疫病。
この3つは常々危険ですが、その引き金になりかねない、金融危機や、食料危機。
その根源である、愛の欠乏、愛の喪失。
変える方法は、愛による次元上昇。もうこれしか無いと思っています。
様々な所で、愛の書き換えを起こしていくことが重要なのです。