呪詛の前世のカルマ解消した直後、実は、2019年3月27日~29日にかけて、長野の旅に出たのでした。
これは、2019年3月頃から織田信長公の事が本格的に気になりだしたのです。
その中で、急に何故か長野に行かなくてはならないと思ったのですね。
しかし、まさか自分が武田家とご縁があるとは思っていませんでした。
長野に行った理由は他にもありますし、あらゆる意味で非常に重要な地なのですが(特に諏訪湖)、その要因の1つとして、この時の前世に関連している地だから行ったようなのです。
この時の前世療法の内容は、カルマ解消というよりは、
●現在の自分に対する忠告
●その後、出会う人も武田家の前世と関連している
●戦国時代の前世全体を見通す為
●自分自身でも前世療法ができるように
という事にあるようだったのです。
1.痛む場所
肩甲骨上側。
実は当初肩凝り程度でしたが、先生に見てもらう直前辺りで急に痛みだし、見て欲しくなった場所です。
2.生い立ち
史実上では、1525年生まれですが、実際は1529年生まれ。
529回目の転生。
武田家の家臣の1人です。
当時、前世の私は、武田家に対して不満がたくさんありました。
(詳細はまた別の機会で、現代ではちょっと考えられないことばかりですが)
1561年に川中島の戦いで没した事になっていますが、死んだ事にして、その後、織田家に間接的に協力していきます。死んで生きるという、日本ならではの独特の生き方ですね。
実はオーリングで、その後、彼の人生をかなり解いていっていますが、前世療法の本題からちょっと逸れていきますので、詳細はまた別の機会にします。
戦国時代に出てきた自分の前世、10名の内の1人です。
ちなみに細川幽斎とは別の前世になります。
しかし、やがて後程彼とも出会う事になります。
3.出てきた場面
前世ヒーリングの中では、織田信長にいきなり恫喝されている所から始まります。
1558年、織田信長が美濃に攻め込む時のようです。
1556年に美濃君主、斉藤道山が亡くなっていますが、それは子義龍による暗殺が原因でした。
商人上がりの父道山のカリスマ性は非常に強く、その為民の反感は強く、またそれは家臣も同様でした。
そもそも織田家にとって斉藤家は長年の強敵。
その斉藤家に戦いを挑む所です。
機は熟した。
タイミングは確かにこの時だったのだと思います。
ですが、信長公がまだ若い時代で、彼は早く手柄を取ろうと焦りがありました。
この時は普通に突撃し、斉藤義龍を討って名を挙げようとしていたのです。
前世の私は、この時信長軍より協力要請を受けます。
実は、この段階まで、武田家と織田家は決して仲良くありません。
織田家にとっても武田家には初めての協力要請だったのです。
ただ、織田家としては絶対的に斉藤家に勝利したかったのでしょう。
武田家は斉藤家とは隣接していた事。もう1つは武田家の地形的な有利さ(標高が高い)もあったようです。
この時、織田信長には協力の返事をします。
しかし、いざ戦いが始まる直前に、信長の戦略に協力をしない。というより織田家の進軍を防ぐ動きを私は仕掛けます。
事前に作戦を練り、合図と共に突撃をしようというのが織田家の作戦でしたが、どうしても気が乗らなかったのです。
一旦全員退却になり、その後織田信長に呼び出されます。
織田信長は本当に怒りのピークで、自分の戦略を邪魔されたと思い、最初私の首を斬ろうとしました。
「何故、動かなかったのだ!」
しかし、私はずっと黙ってまま頭を下げ続けました。
この為に、ひとまず斬るのは止めたのです。
雰囲気から何か私に考えがあったのだと察してくれて、ギリギリの所で踏み留まってくれたのでした。
もし、私が一言でも発すると恐らく斬られていたようなのです。
この後、一旦それぞれ退却をしたのでした。
Ⅰ.織田信長の戦略要請に乗らなかったその理由
突撃すると、実は織田軍は勝利をしていたとも思っていたのですが、その後の事を考えた結果、この策は非常に勿体無いと思ったのです。
斉藤義龍は父道山(当時、尾張美濃のカリスマです)を暗殺した為、既に民の忠誠心は劇的に下がっているのです。
それは家臣も同じでした。
しかも、斉藤家の家臣は当時優秀な者が揃っていました。
正直、武田家よりも全然上と見ていました。
戦ってしまうと彼らを亡くす危険性もある。
優秀な人材を失う。
これは非常にもったいない事なのです。
このニ家を戦わせるのは勿体無い。
武田家に力があれば、この二家を戦わせて喜んだのかもしれませんが、それよりは勿体無い、の思いが先立ったのです。
それともう1つ、こちらの方がもっと重要でした。
織田家の作戦通りにしますと、尾張~美濃の農地や街が大荒れになるのです。
と、なると民衆から反感を買う事になるのです。
その後が戦いにくくなるのですね。
そこで取るべき作戦は、斉藤家を滅ぼすのでもなく、戦いを仕掛けるのでもなく、民だけを味方に付ける方法が良いのだと思ったのです。
つまり遊説作戦がベストと見たのです。
主にこの2つがその理由でした。
ですが、もう1つ当時やっかいな存在があったのです。
当時の歴史を語るにはここを飛ばす訳にはいきません。
Ⅱ.当時、最強の存在は本願寺家だった
この当時、実は多くの者に影響を与えていたのが本願寺家です。
本願寺家は一大名でもありましたが、それ以上に宗教家といった方がよいのです。
平和主義で、戦わない重要性を説き、多くの人達の心を掴んでいたのでした。
当時、明確に所有していたと言える領土は北陸の一部でしたが、一向宗(浄土真宗)の影響力は非常に広大でした。
近畿はほぼ全土、中部では東海、長野を除くほぼ全域にまでその影響は及んでいたのです。
本願寺家は自ら攻める事はありませんでした。
ただし、攻められた時には傭兵を雇って戦いを仕掛けていく。
そして奪われたものを取り戻す。
そして民と傭兵達が団結する。
かなり練られた方法を使っていたのです。
このようにして地味に勢力を拡大していきます。
また、実際には心を掴んだ民衆達が一番やっかいなのでした。
影では本願寺家を支援することが多く、大名には地元であっても協力しないという事はよくあり、本願寺家の息のかかった地域で戦いを起こすだけで、誰でも不利という現状だったのです。
本願寺家は大名のように領土という支配が無いのですが、各地で幅広く寺から広め、多くの民衆の心を掴んでいたのです。
大阪、京都、名古屋近辺といった当時の主要都市でも。
本願寺家による間接支配は相当なもので、織田家も非常に動きが取りづらかったのです。
ただ、本願寺家は大名という意識では動いておらず、国家統一を目標としていた訳でもありません。
ただひたすら平和の世を追い求めていたのです。
当時の混乱期で最も力を持ったのは、記録からは判断できないと思いますが、私の記憶からは、実質的に本願寺家と言って間違いないと思っています。最も多くの人の心を支配した存在だったからです。
こういったいきさつもありましたので、本願寺家のようにまず民衆の心を掴む方が先だと思ったのです。
Ⅲ.織田信長とその2週間後、一気に同盟関係に
手討寸前の日から約2週間後、織田信長より書が送られてきます。
何故あの時、作戦を妨害したのか、についてです。
私は話をする、と返事を出し、その後織田家に呼ばれ、足を運び、前述のような内容を伝えました。
もう一度まとめますと、大体次の2つになります。
●斉藤家の有力家臣への内通。寝返り。獲得を目指す。
●美濃での遊説作戦。並びに平和への導き。そして民の納める年貢は南は織田家に、東は武田家になるように促す。
すると、この時ですね。
即、引き抜き要請があったのは。
驚きの変わりようです。(笑)
ですが、武田という名が付く以上、そう簡単には動く事ができません。
しかし、いずれ。という気持ちはこの段階ではありました。
私もこの事を即返答します。
武田家は気位が高すぎて、ちょっと天下を取る器に無いと思ったのです。
思考も固すぎる事もありました。私自身も不満がいろいろありましたし。
当時、一大勢力を築くとすれば、破天荒の噂がありながら、多くの者の心を掴んでいた織田信長。
もし生きていれば、商人上がりの斉藤道山。
当時私はこの2人が有力だと思っていたのです。
この2名は求心力が突出していた事もあったのですが、決断力、行動力、思考、器も突出していたのです。
しかし、道山はもう居ません。
ちなみに上杉家はこの時はそれ程まだそれ程強さを発揮しておらず、実際に強さを発揮しだすのはもう少し後の事です。しかも、武田家からしますと、長年敵対関係で、協力関係は不可能な相手でもあります。
北条家については、50年程前は強かったのですが、内紛でどちらかと言えば当時は弱くなってきている印象です。
今川義元は力はあるとは思っていたものの、頑固で、家臣がついていってない感じでした。
これ以降、武田家と織田家は実質同盟に近い関係となります。
(史実にはありませんし、無いようにされていると思いますが)
また、明智光秀はこの時斉藤義龍の元、まだ仕えていたのですが、斉藤道山の死後、当然ながら忠誠心は殆どありません。(京都、足利家にも帰れる状況でもなかったから、というのが一番だと思いますが、こちらも滅亡寸前でしたし。)
その他有力な家臣がいましたが、まずは彼の引き抜きをこの時強く推していたのでした。
明智光秀は実質斉藤家の参謀役。だけでなく騎馬隊の隊長までも兼ねていました。
ですから、道山亡き後、明智光秀が抜けこちらに就いた後は、有力家臣が次々こちらに就くと見ていたのです。
そして引き抜きにもいずれ成功する事になるのですね。
民衆に対しても遊説で、比較的簡単に思惑通りに進みます。
信長は、日本の平和の約束を伝え、民衆の心も動かされたのです。
こうして美濃~尾張まで織田家の間接支配が成功するのですね。
思い出した事はこの他にもたくさんありますが、今回はここまでにします。
4.ここで学んだ事
急がず、黙って耐える。事の重要性。
動くと命を失う事がある。
常に急げばよいというものでもありません。
機は熟したと思っても、まだ早いという事はあるのです。
後、もし、あの時一言でも発していたら、恐らく首を斬られています。
その後歴史はどうなっているか判りません。
この事が私に対する主なメッセージでしたが、これ以外にもこの前世には意味があったようなのです。
メッセージ的には以上なのですが、この前世については、この後の出会いとも関係があり、また当時の事を幅広く思い出す為のものでもあったようなのです。
5.大阪のとある先生が、前世で関係がある事が判る
この前世ヒーリングを受けた日が2019年4月2日の午前でした。
そして、この4月2日の午後からですが、大阪のとある先生の予約を取っていたのです。
前世でもそれなりに関係性のある人だったからです。
一度会ってみたく思っていて、事前に予約を入れていたのですね。
実は、この方の前世が、武田家の有力家臣の1人だったのです。
武田家では、その方との関係性はライバルでした。
ちなみに、この方とは前世でライバルの関係性が本当に多いのです。
その場では判りませんでしたが、これは帰ってからオーリングで判ったことです。
その方は「京都が嫌い」とも言っていました。
それは、私が住んでいる所という意味でもなく、(笑)
ぶぶづけでも食べなはれ、が嫌いという意味でもないようです。(笑)
これも後から判ったのですが、この時代にこの前世で嫌な思いを京都でしていたからなのでした。
これが一番の原因のようなのです。
この方とは、この日以来会っていないのですが、いずれ確認してみたいとは思っています。
しかし、前世の関係性から見れば、次回に会うのはちょっと時間が空くようです。
ですが、いずれ会う時が来るようですので、楽しみにしてますけどね。
6.まとめ
今回の前世ヒーリングは、ヒーリングというよりは、
何でも急げばよいというものでも無いという忠告。
前世の記憶をさらに拡げる為のヒーリング、というものでした。
その為に、その前世とご縁が深い人とその日の内に会うという事も面白い経験です。
自身を浄化するのも重要ですが、今後は自身でもどんどん調べて知ってください、前世の記憶をどんどん思い出してください。という事ですね。
後から、いろいろ繋がってくるので本当に面白いんですけどね。
ウィキペディアから繋がったり、ああ、あの人がこの人になるのね。
という事も後々判って来ます。
確かに戦国時代の歴史は愛の書き換えだらけなのです。
あなたがもし、前世療法や前世ヒーリングで、史実に残っていそうな自分が出てきたり、判明すれば、ウィキペディアや伝記等で調べてみてください。
また、ひょっとして現代の有名人が自分の過去世・未来世だったりする可能性もあるかもしれません。
ですから、もしオーリングで有名人が現在該当者がゼロの場合であっても現段階ではガードされている可能性だってあります。
前世療法、前世ヒーリングが進む内に史実上の前世(場合によっては未来世)が新たに判る事もあるのです。
通常多くの人は何百の前世がありますので、実際にその内いくつかあるかもしれません。
ここまで来ますと、自分で前世ヒーリングも可能になってきます。