前世歴史探訪 その9.信長上洛1568年 無血での上洛

前世歴史探訪

1565年頃、足利義輝亡き後、織田家は東日本をほぼ全て傘下、支配下が進んでいる状態でした。

この時、武田家は、斉藤家との戦いから実質的には同盟国に近いですし、東北の最上、伊達、南部の3大名は、上杉氏の陣地を突破し、同盟国家となります。その後は、上杉家を包囲している状態でした。

ですから、東日本では、この段階で実質的な敵は上杉家と北条家位でした。

ですが、近畿地方はかなり大変です。

1つは本願寺家の間接支配。
もう1つは浅井家が非常に強かった事。
後、足利義輝の死による足利家の崩壊。

この3つの問題を解決する必要があったのです。

ちなみに、本願寺家と浅井家で共通する点は、鉄砲の開発に注力していた事です。
本願寺家は大坂に。浅井長政については近江に、拠点を置きました。

また、もう1つ忘れてはならないのが足利義昭です。
足利義輝亡き後、彼のお陰で殆ど戦う事なく上洛できたからです。

この混乱期の中、信長がどのように上洛するか。
やはりそこにも愛があったのですね。

殆ど戦いは無く、上洛を果したのです。

戦わなかったからこそ上洛ができ、その後もスムーズに進んだとも言えるのです。

1.1565年当時、近畿で最も強い大名は浅井長政

1560年頃まで、近畿で最も強い大名は六角家でしたが、その大名を相手に僅かな軍勢で、足軽戦で見事勝ったのです。僅か15歳の頃です。

以降、六角家の武将達も彼について行きました。
また、何かと彼はカリスマもあったのでしょう。次々彼に付いていきます。

それまで近畿では、伊賀の六角家が一番強いのでしたが、この段階で明確に抜いていました。

以降、浅井長政は徐々に勢力を拡大。

また、鉄砲の開発にも力を入れます。
近江の鍛冶職人の発展は、彼の力によるところが大きいのです。

1565年足利義輝が亡くなった頃では、東日本を押さえている織田家にとっても侮れない存在でした。

織田信長は妹の”お市”を嫁に差し出す

そこで、織田信長は妹の”お市”を嫁に差し出します。
実質傘下にしようと思ったのですね。

ですが、この作戦はあまりうまく働きませんでした。

最終的には残念な結果となるのですが、暫くは盟友的な動きを取れる点と、実は、上洛を無血で働く意味では重要だったのです。

2.足利家の事情

Ⅰ.足利家の正室では、13代足利義輝で絶えていた

1565年三好家によって足利義輝亡き後、直後は主君不在状態が実際の所です。

14代将軍義栄は義輝から見て、実は異母弟でした。15代将軍義昭も異母弟でした。
このように、足利家の正室家系、本当は13代義輝で絶えていたのです。

15代義昭は実弟と記載されていますが、後からそのようにした、という所が実際の所です。

ですから、当時、義輝が亡き後はどうしても揉める事となりました。

Ⅱ.三好家が14代義栄を盾に上洛(1565~1568年)

13代義輝を暗殺した三好家は14代義栄を主君と称し、足利将軍の元上洛、政治利用します。
実際には、義栄は幽閉されていたようで、将軍らしい仕事はさせてもらっていません。

こうして京都の地は実質的には三好家が支配していたような状況ですが、在京の本願寺家が反対したりで揉めます。
また、義昭派(京都では細川幽斎が代行)もいましたので、主君が誰か判らない状態です。

Ⅲ.義昭は滋賀に居る事にし、実際には織田家の元に

一方、義昭は、義輝暗殺の際、真っ先に退京します。

本来、義輝が亡くなった場合には、義昭になる予定でもあったようです。三好家は当初は捕らえるつもりでしたが、失敗し、仕方なく14代将軍義栄を将軍にした流れのようだったのです。

細川幽斎は、兄明智光秀が既に織田家の家臣になっていた事もありましたので、ひとまず織田家を頼ったのでした。
ですから、義昭派の家臣は、実質的にこの段階で織田家の傘下になっていたのです。

当初、足利義昭は表向き滋賀に居るという事にし、そこから足利義昭派の家臣達に指示しましたが、三好家から狙われる危険性もあり、実際には尾張に居たのでした。将軍ですので、織田家の傘下という事を表向きにする訳にもいかなかった事もありました。

Ⅳ.義昭はそれでも再興を考えていた

それでも、1565年当時、足利義昭は将軍家の再興は考えていました。

正直な所、細川幽斎は、財政的な問題もあり、早々に織田家の軍門に下る方が手っ取り早いとは思っていましたが、足利家の将軍としての地位も200年以上続いていた訳ですから、簡単に潰すのも勿体無いというのも一理ありました。

この段階では将軍足利家の名前はそれなりに効果もあり、
●●探題、●●奉行と言った任命や、将軍家の名によって講和するとか、通常言いにくい事ができるメリットもあります。

織田信長も彼の意を汲み取り、また、足利将軍の元、上洛しようとも思ったようです。

Ⅴ.まず最初に取り込もうとしたのは朝倉家

朝倉家は、足利義輝が在命の時代までは、かなり密な関係でした。
この事もあり、足利義昭は朝倉家によって、当初、上洛を計画していました。

しかし、朝倉家もそこまで余裕があった訳でなく、また浅井家と隣接するだけでなく、通る道という問題から、上洛を断った経緯がありました。

結局は、自身の身を置いてもらう事になった織田家と上洛する事になります。

3.足利義昭将軍による信長上洛

3年後、1568年ですが、信長は、浅井家と共に義昭を擁護し、そのまま上洛します。
当時近畿では最強と言われた浅井長政。彼と共にする事で事態は好転しました。

道中にある六角家は無血開城させ、京都に居た三好家はこれを見て戦わずして退出します。この時14代将軍義栄は終わる事になります。

このように、実質殆ど戦わずして上洛を果たせたのです。

実態としては、足利義昭は織田家の傘下ですが、あくまでこの時は15代将軍足利家の命により上洛したのです。

この時より足利義昭は京都の第15代将軍となります。

4.問題点は、浅井家と織田家の対立

この頃より、浅井家と織田家は対立します。

足利義昭の上洛にあたっては、浅井長政は利用された感があったようです。
場所的には隣接している京都を先に征服された感もあったようです。
そもそも近畿では一大勢力を築きあげた自負もあったのでしょう。

実は、この浅井長政との関係が、上洛にあたって一番の問題だったのです。

本当は、妹を嫁に出す事でそのまま傘下になってもらえればよいと思っていたのですが、そうにはならなかったのです。

ですが、この点についても織田信長・足利義昭は上手に立ち回る事になります。

実は、表向き程織田信長と足利義昭は敵対していたのではなく、むしろ協力的な関係だったのです。
(続く)

<<前に戻る
>>次に進む
カテゴリートップへ戻る
前世の法則トップに戻る